新宿「萬馬軒」「ディスクユニオン」。品川「味の素食の文化センター」。大崎「容器文化ミュージアム」。

新宿:橘川さんと昼食。「らんぶる」で打ち合わせ。萬馬軒でラーメン。

 

ディスクユニオン。『映画の名言 366日』(品川亮)と松村雄策『悲しい生活』(ロッキングオン)を購入。

 

企業ミュージアム訪問の再開。まず品川区から。

品川:味の素食の文化センター。味の素研修センターの中に設置されている。

創業時の二人の人物の「味の素」の開発物語をみた。現在の味の素は1兆円を超す企業で営業利益も1000億円を超える優良企業だ。

大崎:容器文化ミュージアム

大崎フォレストビルには、(株)日本総研とともに、「製缶」に縁のある企業が入居している。東洋製缶の創業者・高碕 達之助のことが説明されていた。この「容器」をテーマとするミュージアムは「缶」からヒントを得たものであることがわかった。創業の精神を大事にしていることがわかる。

高碕 達之助(たかさき たつのすけ、1885年[1]2月7日[2] - 1964年2月24日[1])は、日本政治家実業家満洲重工業開発株式会社副総裁・第2代総裁電源開発初代総裁、通商産業大臣、初代経済企画庁長官などを歴任。東洋製缶の創業者。

上は製缶期機。下は東洋製缶の看板。

 

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「名言との対話」3月2日。相馬黒光「波も風もないことだけで幸せとはいえないと思うんですよ。波も風もないのは、幸福でもなければ、不幸でもない。ただ何もなかっただけの話ですよ」

 相馬 黒光(そうま こっこう、1876年9月12日 - 1955年3月2日)は、夫の相馬愛蔵とともに新宿中村屋を起こした実業家、社会事業家。

仙台生まれ。12歳でキリスト教の洗礼を受ける。裁縫学校、宮城女学校、横浜フェリス英和女学校と転校を繰り返し、明治女学校で学び、島崎藤村国木田独歩の影響を受けて文学に目覚める。黒光という珍しいペンネームは、溢れる才気を少し黒で隠しなさいという意味で女学校の恩師からもらったものだ。

卒業後、1897年に長野県のキリスト教徒の相馬愛蔵と結婚し安曇野に住むが、村風にあわず、夫とともに東京に出る。26歳と21歳だった。東京でパン屋「中村屋」を開業。1909年、新宿を本店とする。同郷の荻原守衛を中心に芸術家・文化人が集い、「中村屋サロン」と呼ばれる。1910年、荻原が中村屋の敷地内にアトリエを建築。柳宗悦も一時アトリエに住む。1911年、荻原のアトリエを中村屋に移築し、「碌山館」と命名した。

中村屋はゆっくり成長していった。愛蔵は世の中の仕事というものには、改善できる部分が必ずあるという考えで、一つずつ改良を重ねていく。私の好物でもあったクリームパンは中村屋の発明である。

中村屋サロンに集った人々のなかでも彫刻家の荻原守衛・碌山は二人にとって特別な人だった。特にアンビシャス・ガール黒光は弟のように接している。アメリカ、ヨーロッパで7年間の彫刻の修行をし、ロダンの弟子となった守衛は、亡くなるまでこの夫妻とともにあった。守衛の師匠はロダンであり、ロダンの師匠はミケランジェロである。

インド独立闘争の英雄、チャンドラ・ボース1897年1月23日 - 1945年8月18)を官憲からかくまったのも、この中村屋である。インド人の革命運動家は、日本の大アジア主義者を頼って日本にきた。遠山満、犬養毅らと交流した。日英同盟を結んでいた日本は国外追放命令を出すが、1915年12月1日から4か月、中村屋相馬愛蔵・黒光夫妻が「アトリエ」にかくまった。ボースは食事を運んでいた愛蔵・黒光の娘と結婚している。ボースは二人を「トウサン」「カアサン」と呼んだ。

 69歳時点で愛蔵は「中村屋の商売は人真似ではない。自己の独創をもって歩いてきている」と振り返っている。従業員の待遇や、働く環境を考えるこのとが、経営を安定させる道であり、商売を成功させる秘訣だ。経営の合理性の問題として語った。時代を先取りした珍しい経営者だった。

2014年に新しい新宿中村屋ビルが完成した。その真ん中の3階に新宿中村屋サロン美術館が開館した。2019年11月25日に「新宿中村屋サロン美術館」を訪問した。ここで購入した石川拓治『新宿井ベル・エポック:芸術と食を生んだ中村屋サロン』を読むと、この二人の軌跡がよくわかる。表紙は、荻原守衛の「女」だ。まさに、これは黒光そのものである。
019年12月4日に訪問した小川正子記念館ではハンセン病に尽くした女性の名が挙げてあった。吉岡弥生神谷美恵子らと並んで小川正子を支えた人々として相馬黒光の名があった。晩年の正子を勇気づけ、戦時中にバターや砂糖を贈っている。

 黒光に愛を感じていた夭折の彫刻家・荻原守衛の代表作のひとつに「女」がある。何かに捕らわれてるかのように、後ろで両手が結ばれ、そしてひざまずきながらも立ち上がろうとして、顏を天に向けている作品である。この「女」をみたとき、黒光は「これは私だ」と叫んだという。 

 「波も風もないことだけで幸せとはいえないと思うんですよ。波も風もないのは、幸福でもなければ、不幸でもない。ただ何もなかっただけの話ですよ」という黒光という女性の生涯は、束縛から逃れようとした波乱に富んだものだった。それは「才気」と「野心」にあふれる自らの性格がまき起こしたものであり、本人が望むものだったものだろう。

参考:石川拓治『新宿井ベル・エポック:芸術と食を生んだ中村屋サロン』