三宅一樹展「拝啓、碌山殿。」ーー「あなたが切り開いた彫刻の道を、私はしっかりと継承し、歩めておりますでしょうか。」

新宿の「中村屋サロン美術館」で開催中の企画展は、三宅一樹展「拝啓、碌山殿。」

サブタイトルは「拝啓、碌山殿。あなたが切り開いた彫刻の道を、私はしっかりと継承し、歩めておりますでしょうか。」

現代彫刻家・三宅一樹(1973年生まれ)のメッセージは「この碌山研究の試みが、また次世代へと、正統派彫刻のバトンを繋げられることを夢見ています」だった。

木彫家を天職とする三宅一樹は「この木でなければできない作品」を創っている。最近は御神木という唯一無二の素材を扱っている。

中村屋サロン」は彫刻家にとっての聖地だから、碌山をテーマとするしかない、考える。その作品が次の「「碌山研究ー小坑夫」「女」「十四歳の手」だ。

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三宅一樹(みやけいっき)の代表的作品。

この美術館で手にした図録に掲載された対談で、「父親がデアザイナーだった」と語っていた。父親とはファッションデザイナーの三宅一生ではないだろうか。新しい才能が出てきているのだ。

奇しくも、本日の「名言との対話」は、本日が命日の荻原守衛・碌山となった。

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「名言との対話」4月22日。荻原守衛・碌山「蕾にして凋落せんも 亦面白し 天の命なれば 之又せん術なし 唯人事の限りを尽くして 待たんのみ 事業の如何にあらず 心事の高潔なり 涙の多量なり 以て満足す可きなり」。享年30。

荻原碌山(おぎわら ろくざん、1879年明治12年12月1日 - 1910年明治43年4月22日)は、明治期の彫刻家。本名は守衛(もりえ)、「碌山」は号である。

長野県安曇野市出身。1901年、アメリカのニューヨークにわたり絵画を学ぶ。1904年、フランスのパリでロダンの「考える人」をみて「人間を描くとはただその姿を写し取ることではなく、魂そのものを描くことなのだ」と気づかされ、彫刻を志す。

1907年に再度渡仏した碌山はロダンに面会している。荻原はロダンに「考える人、が手本」というと、ロダンは「それなら私の弟子だ」と言い、「師は至るところに存在している」「自然を師として研究すればよい」とアドバイスした。「女の胴」、「抗夫」などを制作した。

帰国し1908年には「文覚」で第二回文展に入選。1909年には「デスペア」を制作。1910年「女」は、絶望と希望が融合した作品だ。このシリーズは人妻への許されぬ恋の軌跡が宿っており、人々に感動を与えた。その女性は「胸はしめつけられて呼吸は止まり・・・自分を支えて立っていることが、出来ませんでした」と語っている。その年に荻原碌山は30歳で急逝する。

新宿の荻原守衛(碌山)のアトリエ「忘却庵」は、中村屋の近くにあり、信州安曇野の同郷人としていつも出入りしていた。「同郷の作家・臼井吉見は『安曇野』で碌山らを描いている。

2012年に民間人30万人が設立に参加したと言われる長野県安曇野の夭折した荻原守衛美術館を訪問した。そのシンボルである「碌山館」はキリスト教の教会堂を思わせる。高村光太郎が絶賛した「坑夫」、「文覚」が素晴らしい。荻原が「東洋のロダン」と呼ばれていたのもうなづける。

碌山は「蕾にして凋落せんも 亦面白し 天の命なれば 之又せん術なし 唯人事の限りを尽くして 待たんのみ 事業の如何にあらず 心事の高潔なり 涙の多量なり 以て満足す可きなり」と人生観をあらわした詩を書いている。そして「愛は芸術なり。相克は美なり」という碌山の言葉も、彼の短い人生と彫刻シリーズ制作の軌跡を追うと、納得することができた。

新宿の「中村屋サロン」に集った人々のなかでも彫刻家の荻原守衛・碌山は相馬愛蔵・黒光の二人にとって特別な人だった。特にアンビシャス・ガール黒光は3歳年下の碌山を弟のように接している。 黒光に愛を感じていた夭折の彫刻家・荻原守衛の代表作のひとつに「女」がある。何かに捕らわれてるかのように、後ろで両手が結ばれ、そしてひざまずきながらも立ち上がろうとして、顏を天に向けている作品である。この「女」をみたとき、黒光は「これは私だ」と叫んだという。 

アメリカ、ヨーロッパで7年間の彫刻の修行をし、ロダンの弟子となった守衛は、亡くなるまでこの夫妻とともにあった。守衛の師匠はロダンであり、ロダンの師匠はミケランジェロである。

新宿の 中村屋サロン美術館(2014年開館)は、こじんまりとした感じのいい美術館だ。2019年に荻原守衛展をやっていたのをみた。そして2023年には、碌山の志を継ごうとする三宅一樹の「拝啓。碌山殿。」展をみた。

ミケランジェロを師としたロダンロダンを師とした碌山、この流れは今も続いているのだ。碌山の活躍はわずか2年に過ぎないが、友人の高村光太郎は「日本の近代彫刻は荻原守衛から始まる」という説に賛同している。日本の近代彫刻は、30歳で夭折した天才・荻原守衛から始まったのである。