ゴロ―ニン『日本幽囚記』ー「文学性もあり、記録性もある。世界の財産みたいな本」(司馬遼太郎)

佐久間象山の没年月日は、元治元年7月11日(1864年8月12日)。

今年の「名言との対話」では7月11日で取り上げているが、西暦の8月12日にアップした。このため7月11日が欠けることになった。幕末のゴロ―ニン事件に名をとどめている、ゴロ―ニンを書いてみた。

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「名言との対話」7月11日。ゴローニン「日本人は世界で最も聡明な民族」

ヴァシーリイ・ゴローニンロシア語: Васи́лий Миха́йлович Головни́н, ラテン文字転写: Vasilii Mikhailovich Golovnin1776年4月19日ユリウス暦4月8日) - 1831年7月11日ユリウス暦6月29日))は、ロシア帝国ロマノフ朝)の海軍軍人探検家学者

1811年、ロシアのディアナ号の艦長ゴロ―ニン大尉は、千島列島南部の測量を命じられて活動中、松前藩の役人に補給をうけたいと申し出たが、捕縛され牢獄に入られてしまった。

副艦長のリコルドは国後沖で高田屋嘉兵衛の観世丸を拿捕し6名の乗組み員を連行した。嘉兵衛による日本側との交渉を経て、ゴロ―ニンは解放された。

高い知性の持ち主だったゴロ―ニンは、ロシアへの帰国後、捕囚生活の手記『日本幽囚記』を1816年に出版し、日本と日本人についても論評した。この本はドイツ語、フランス語、英語などに翻訳されて、信頼すべき日本情報として評価された。ドイツ語版をオランダ語に重訳した『遭厄日本記事』として日本でも出版された。この本は故郷の淡路島に戻っていた高田屋嘉兵衛も読んでいる。明治になって1894年には『日本幽囚実記』として邦訳された。

ゴロ―ニンは捕囚生活を冷静に見つめており、日本人を観察している。そして本の扉に「風習は民族によってさまざまですが、よき振る舞いは、いずこの地でもよし、と承認されることでしょう」という日本人の言葉を紹介するなど、日本人は「世界で最も聡明な民族」と紹介している。高田屋嘉兵衛らとの濃密な接触が念頭にあったのだろう。

このあたりのことは、私は高田屋嘉兵衛を描いた司馬遼太郎菜の花の沖』で詳しく読んでいる。司馬は『日本幽囚記』について、「文学性もあり、記録性もある。世界の財産みたいな本」と評価している。

さて、このゴロ―ニンは1817年から1819年にかけて、カムチャッカ号で世界一周の航海に出ている。1823年には海軍中将に就任している。

ハインリヒ・ハイネは、『日本幽囚記』から日本人が地球上で最も文明化した、最も洗練された民族であると読み取って、日本人になりたいとも書いている。ペリー提督もこの本を読んでいたらしい。幕末から維新という近代において、『日本幽囚記』は日本と日本人のよきイメージを世界に喧伝してくれたのだ。

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「名言との対話」8月13日。伊波普猷「深く掘れ己の胸中の泉、余所たゆて水や汲まぬごとに」

伊波 普猷(いは ふゆう、1876年明治9年3月15日 - 1947年(昭和22年)8月13日)は、沖縄県那覇市出身の民俗学者、言語学者、沖縄学の父として知られる。

沖縄県那覇市出身。士族身分の素封家に生まれる。中学校で校長排斥のストライキで退学処分。三高から東京帝大の言語学の第一期生として入学し、琉球語学を学ぶ。新村出の講義を金田一京助アイヌ語学)と聞いた。上田萬年の講義は鳥居龍蔵と聞いた。伊波は三高時代から琉球の歴史や文化に関心をもち、東大時代には沖縄の祭祀歌謡集『おもろさうし』の研究を始めている。

卒業後に沖縄研究を志して帰郷し沖縄県立図書館長としてつとめながら啓蒙運動をエネルギッシュに展開した。琉球史、宗教、音声学などの講演活動、読書会、子どもの会、婦人講話会、エスペラント講習会など実に多様な分野が対象だった。

1921年柳田国男との出会いによって、1924年に上京し沖縄研究に打ち込む。大二次大戦後の1947年に没した。享年71。

伊波の研究は沖縄研究を中心に言語学民俗学文化人類学歴史学宗教学など多岐に渡る。その学問体系よって、後に「沖縄学」が発展したため、「沖縄学の」とも称された。『おもろさうし』研究への貢献は多大で、琉球と日本とをつなぐ研究を行うと共に、琉球人アイデンティティの形成を模索した。「日琉同祖論」はその探究の一つである。

「沖縄歴史物語」で、日本の帝国主義と中国の夢の真ん中に沖縄があるとも語っている。伊波普猷琉球は言語などにみえるように、沖縄は日本文化の古層であり同じ民族であると主張し、民族の統一を積極的に進めるべきだと説いた。そして琉球の伝統文化の保存が行われた。伊波の沖縄学はアイデンティティの確立に強い影響を与えた。一方、近代日本の沖縄差別に対する批判が弱く、同化政策に力を貸したとの批判も起こっている。

浦添城跡の顕彰碑には「彼ほど沖縄を識った人はいない 彼ほど沖縄を愛した人はいない 彼ほど沖縄を憂えた人はいない 彼は識ったが為に愛し愛したために憂えた 彼は学者であり愛郷者であり予言者でもあった」と刻まれている。死後半世紀上たった1974年から1976年にかけて平凡社から『伊波普猷全集』全11巻が刊行された。

伊波普猷は「自覚しない存在は悲惨である」と語っている。歴史を学ばない民族の未来は暗澹としているということであろう。冒頭の言葉はニーチェの警句「汝の立つ所を深く掘れ、其處処には泉あり」を愛した伊波普猷が沖縄語に翻案した琉歌である。自分の源を深く深く掘れ。己の立つ場所を深く掘りきった人の言である。この人は沖縄の歴史と文化を研究し、沖縄の近代をみつめた人である。