命がけの仕事をライフワークという。研究者は研究を続ける。

中央大学の塩見英治先生(名誉教授)とお会いして、近況を交換した。

JALの広報課長時代にワシントン線就航時の航空関係の識者のツアーを実施したことがある。この時、参加されて親しくなった。航空政策ではお世話になった。

畢竟の代表作『米国航空政策の研究』(文眞堂)をいただく。「命を懸けた」とおっしゃるから、ライフワークである。ライフワークは、まさに命がけの仕事のことをいうのだと改めて思った。

米国の航空政策について、規制中心の時代から2006年までの軌跡を丹念に追っている。市場の構造と変化、戦略のダイナミズム、競争政策、グローバルに展開したオープンスカイ政策、、、。こういった激動を多面的に分析した労作である。豊富な資料を駆使した系統的研究で、著者の長年の研究の集大成だ。この時代のこの分野については、これ以上の研究は出てこないだろうと思われる大作である。

塩見先生は1982年の35歳あたりから研究のスタートを切ったという遅い出発というから、この本が刊行された2006年の59歳まで約四半世紀の時間を要している。その後は、コンビニ業界など流通に関心が移っている。

また大学を退職後に余技として2022年に「北前船」の研究書も書いている。司馬遼太郎の『菜の花の沖』に感銘を受けて始めている。淡路島にある高田屋嘉兵衛記念館をはじめ、大阪、尾道、下関、岩見、境、小浜、三国、福浦、輪島、伏木、今万智、柏崎、寺泊・出雲崎、小木、新潟、岩船、酒田、秋田、能代、十三湊、松前江差という日本海側の港を訪ねる旅も興味深い。こういうフィールドワークが積み重なれば、素晴らしい研究になるだろうと思った。研究者は研究を続ける、のである。

塩見先生のフェイスブックから。

今日、元日本航空の広報課長の時、1991年にワシントンD.C.線の開設の時、招待され、北米各地を一緒に回って以来の知り合いとあった。調査団には、当時、運輸省関連の委員もいていた今は亡き草柳文恵もいた。講演では、寺島実郎氏にもお世話になった。若き日の商社勤務の彼。今は、有名な評論家。その後、日本航空のそのスタッフは退職、大学の教員に就任、その後、つい、最近、退職、本日、南大沢であった。本も随分,書いている。図の書き方での説明の先駆者だ。だが、最近では、偉人伝、自分史などの本を書いており、本日、いただいた。これを読むと、私の誕生日は,植物学者の牧野冨太郎と同じ。人生の決断のときは、大学教員への転身のとき。その久恒氏と同様。会って、示唆と刺激を受けた。彼は、また、コミニティーでの学習会をも手がけている、現役の頃、「知的生産の技術の会」を主催していた。私も参加していたが、いつの間にか,抜けていた。お詫びしなければならない。なかなか、長続きしない習性。私も共著を入れて、49冊、共訳9冊、報告書15冊書いてきたが、久恒氏はこれをはるかに超える。せめて、論文200本書き、受賞9回受けたのは慰めか。

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  • 新著の共著が届く。
  • 電話:橘川さん:いくつかの企画について。福島さん:知研。
  • 明日の勉強会の準備。発表の当番でテーマは「戒語川柳」。

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「名言との対話」4月6日。小栗忠順「売物になるにも、土蔵付売屋となるはよいではないか」

小栗 忠順おぐり ただまさ、文政10年6月23日1827年7月16日〉 - 慶応4年4月6日1868年5月27日〉)は、幕末期日本武士幕臣)。享年40。

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小栗家は神田駿河台に屋敷があった。明治大学の向かいで現在のYMCAのある場所だ。そこには小栗の像がある。9歳で小栗は安積昆斎の塾に入る。安積は佐藤一斎の学僕から苦労して最初の塾を小栗邸長屋を借りて開いていた。その後、昌平校の教授となる。海防と貿易を説いた。ペリー来航時の国書の翻訳と返事を代作した。門人のリストをみたが、綺羅星のように人材が並んでいる。秋月悌二郎、岩崎弥太郎、栗本瀬兵衛、中村正直清河八郎吉田松陰、福地源一郎、高杉晋作、など2282人。

幕末の徳川幕府勝海舟と並んでニ傑と称された俊才である。ポーハタン号(2400トン)でアメリカに渡った正副使節の目付が小栗で、従えたもう1隻の咸臨丸(300-400トン)の艦長が勝であった。ハワイを経てアメリカ西海岸サンフランシスコに渡り、パナマ。船を乗り換えてカリブ界を越えてワシントン。ニューヨークから大西洋を越えてアフリカ、インド洋、インドネシア、香港。そして江戸へ、という世界一周を果たしている。

ハワイではカメハメハ4世国王夫妻と会っている。正使の村垣淡路守のざれ歌に「ご亭主はタスキ掛けなりおくさんは大肌脱ぎて珍客に会う」がある。

アメリカではリンカーン大統領の前任のブキャナン大統領(1857年-1861年在任)に歓待を受ける。ワシントン上陸時に、「日本人は、列を作って歩ける!」といい、文化の度合いが高いと判断された。
1860年6月22日のニューヨークタイムズは「、、我が国と日本との通商が十分に開放されれば、これらの物品はそっくりまねされて改良されてわが国に戻ってくるに違いない」という観察をしている。
6月30日のニューヨークタイムズ「小栗豊後守は、アメリアの文明の利器を日本に導入することに大賛成だといわれている」と記している。

小栗は「最も日本人らしい威厳と落ち着きを備え、その容姿が端麗でスマートだった」と言われている。アメリカでは精力的に見物している。砂糖精製向上、国務省、海軍造船所、特許局、議事堂、病院、天文台、測量局、ソニアン博物館、、。日本と欧米の差は、鉄を大量に使うことにあるとみた。「日本を鉄の国に改革したい」と思った小栗は、帰国後、日本最初の株式会社「兵庫商社」をつくる。また清水喜助に築地ホテルを建てさせる。

幕府を代表する傑物、4歳上の勝海舟小栗上野介はライバルだった。小栗を登用したのは井伊直弼で、小栗が最後に仕えたのは徳川慶喜である。

小栗は「お役替わり70数度」と言われるほど、人事異動が多かった。能力の高いマルチ人間だった。外務大臣、大蔵大臣(4度)、陸軍大臣海軍大臣東京都知事、、、、。与えられた状況の中で精一杯力を尽くし、沈みゆく船を必死に持ちこたえさせようとする頑固で優秀な行政官僚の姿は清々しい。

小栗の目には徳川幕府の先の新しい国家の動向も見えていた。日本という国家の近代化の役に立てば本望だったのであろう。ここで言う「土蔵」とは横須賀造船所だった。

小栗の最大の業績と言われているのは、「徳川幕府軍のフランス式改良。その指導にあたるフランスからの指導教官の招聘。横須賀造船所の建設」である。横須賀造船所は、「仮に幕府が倒れても、新しい持ち主は「土蔵付き売家を買ったことになる」と小栗は言った。日本へのプレゼントである。明治政府時代には小栗の評価は低かったが、造船と修理にあたった横須賀製鉄所建設の功績は大きく、大隈重信が後年、「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と発言したほどの人物だった。司馬遼太郎も小栗を「明治の父」と記している。司馬遼太郎「横須賀造船所は、かつて日本近代工学のいっさいの源泉であった」(街道をゆく)と語っている。 

1868年に江戸城大会議において主戦論を展開し、役職のすべてを免ぜられ隠退。知行国である権太村東善寺に落ち着く。東山道先鋒総督府が追悼令を発し、捕縛され、5月27日斬首される。安中榛名の東善寺に幕末の徳川幕府勝海舟と並んでニ傑と称された小栗上野介(1827-1868年)の墓と資料館がある。2014年に訪ねた。斬首の地に建つ顕彰慰霊碑の碑文には「偉人小栗上野介 罪なくして此所に斬らる」と記されている。

庭に横須賀から贈られた胸像が建っている。この胸像はやはり朝倉文夫の作だった。親友であった栗本瀬兵衛安芸守(1822-1897年)の胸像も並んでいる。栗本は横須賀製鉄所の功労者である。欧州アルプスを登山した初の日本人。維新後は報知新聞主筆。この像は門人だった犬養毅がつくらせたもの。
裏の小山には小栗上野介と養子で同じく惨殺された21歳の小栗又一の供養墓がある。小栗の戒名は、陽壽院殿法岳浄性居士。雪の階段をかなり登ったところに二人の本墓があり、右手には3人の家臣の墓もある。

遺品館には使った駕籠があった。外には記念植樹で、作家の井伏鱒二が昭和53年6月10日の植樹したとある。

庭に横須賀から贈られた胸像が建っている。この胸像はやはり朝倉文夫の作だった。親友であった栗本瀬兵衛安芸守(1822-1897年)の胸像も並んでいる。栗本は横須賀製鉄所の功労者である。欧州アルプスを登山した初の日本人。維新後は報知新聞主筆。この像は門人だった犬養毅がつくらせたもの。
裏の小山には小栗上野介と養子で同じく惨殺された21歳の小栗又一の供養墓がある。小栗の戒名は、陽壽院殿法岳浄性居士。雪の階段をかなり登ったところに二人の本墓があり、右手には3人の家臣の墓もある。

東善寺の本堂には小栗に関する資料が大量に並んでいた。帰りに本を数冊買ったら、サインをしてくれた。その人はこの寺の住職の村上泰賢さん本人だった。以下、買った本。村上泰賢編「小栗忠順のすべて」村上泰賢編著「幕末遣米使節 小栗忠順 従者の記録」村上泰賢「忘れられた悲劇の幕臣 小栗上野介」「小栗上野介」(市川光一・村上泰賢・小板橋良平)

童門冬二「小説・小栗上野介 日本の近代化を仕掛けた男」を読了した。

著者の童門冬二は1927年生まれだから、ちょうど100年はやく生まれたのが小栗だ。小栗は近代日本の設計者だが、その設計図を明治の新政権が実行した。
「廃藩し郡県制に切り換え、幕府を中央集権政府とし、その主宰者お権限を拡大する」という小栗の新日本構想を明治政府が実行した。

小栗の「混濁した世の中で貫く人間としての潔さと誠意」に興味を持ってこの小説を書いている。組織と人間というテーマを持つ著者の関心を引いた人物なのだろう。幕府を代表する傑物、4歳上の勝海舟小栗上野介の二人のライバルを対比しながら、幕末の様子を幕府側の視点で描いている。

与えられた状況の中で精一杯力を尽くし、沈みゆく船を必死に持ちこたえさせようとする頑固で優秀な行政官僚の姿は清々しい。小栗を登用したのは井伊直弼で、小栗が最後に仕えたのは徳川慶喜である。「お役替わり70数度」と言われるほど、人事異動が多かった。能力の高いマルチ人間だった。外務大臣、大蔵大臣(4度)、陸軍大臣海軍大臣東京都知事、、、、。

1868年に江戸城大会議において主戦論を展開し、役職のすべてを免ぜられ隠退。知行国である権太村東善寺に落ち着く。東山道先鋒総督府が追悼令を発し、捕縛され、斬首される。
斬首の地に建つ顕彰慰霊碑の碑文には「偉人小栗上野介 罪なくして此所に斬らる」と記されている。

小栗の最大の業績と言われているのは、「徳川幕府軍のフランス式改良。その指導にあたるフランスからの指導教官の招聘。横須賀造船所の建設」である。
横須賀造船所は、仮に幕府が倒れても、新しい持ち主は「土蔵付き売家を買ったことになる」と小栗は言った。日本へのプレゼントである。

世界に肩を並べるには、日本の海軍力・海軍力整備が急務という考えから、資金難を乗り越えて、実行した。この製鉄所には、フランス人25人、日本の判任管72人、等外吏121人、番人20人、筆算雇27人、職工1344人、請負職工等100ないし450人を抱えていた。明治政府の殖産興業・富国強兵の模範だった。

明治政府時代には小栗の評価は低かったが、造船と修理にあたった横須賀製鉄所建設の功績は大きく、司馬遼太郎は小栗を「明治の父」と記している。
後年日露戦争の英雄東郷平八郎は、「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい」とし、地方の山村に隠棲していた遺族を捜し出し礼を述べたている。近代日本の礎を担った小栗上野介にはもっと光が当たってもいい。

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