「幸福塾」のテーマは「コレクター列伝」。

「幸福塾」のテーマは「コレクター列伝」。

前回は「計画的ライフワーカー」。今回は、「ブリキのおもちゃ」の北原照久(コレクター)。「ミニチュアカー」の森永卓郎(経済アナリスト)。「稀書」の鹿島茂(フランス文学者)。この3人を取り上げました。

  • アルものを集めて、ナイものを創り出す。醍醐味は既存のものを集めて、未知(未存)のものをつくりだすこと。表現者は創造する。コレクターは再創造する。執念深さと時間。(鹿島茂
  • 生活文化の保存。コレクター道。数が集まるとすごいことになる。自分の好きなことをビジネスとして成り立たせた起業家。ミュージアムビジネス。(北原照久
  • まだ、世間の評価はゼロですが、自分では結構気に入っているモばかりです。(森永卓郎
  • コレクションはいつまでも若い。コレクションは生きている。(高橋龍太郎
  • 集めて再編成することで、一種の「世界(コスモロジー)」を創造する行為だ。創造的な営み。コレクションは造園と同じで、既存のものを集めたり組み合わせていくこと新しい世界を創り出していく。私はコレクションを通して自分を表現したいのだと思います。(寺田小太郎)

意識してコレクター、コレクションを調べてみたが、この分野は、広い。そして、この分野は深い。自分とは何か、人間とは何かに通じているようだ。何回か続けてみたい。

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以下、塾生の学び。

  • 久恒先生、みなさま、本日もお疲れ様です。本日幸福塾、冒頭は久恒先生のブログから幾つかお話頂きました①野田一夫先生を偲ぶ会を盛大に開催。ご生前15年間にわたり配信された「ラポール」というはがき通信を一冊の本として出版準備中との事、ぜひ手に取り野田先生魅力の一端でも感じられたらと今から楽しみです。②女優奈良岡朋子さん死去、ひとり舞台「黒い雨」(井伏鱒二原作)2013年(84歳)から始めた毎年公演は10回継続した、まさにライフワーク。③ミュージシャン坂本龍一さん死去、「遊びは結果を求めない、楽しんで取組むプロセスこそ命」⇒これは知的生産そのもの。映画への取り組み、「映像で語りきれないところを音楽で語らせる」…凄いプロ意識。さて、本題。今回のテーマは「コレクター」、現在存命で久恒先生と同年代の方々を紹介頂きました。1)玩具コレクタ 北原照久氏(1948年1月生75歳)、おもちゃ博物館、「ブリキのおもちゃ」、生活文化の伝承に使命感、コレクターがもはや生業、集めることの楽しさ(世界観)を説く。2)経済アナリスト  森中卓郎氏(1957年7月生65歳)、54種類のコレクションが同時進行中、タレント活動の収入の全てをつぎ込む(?)、飲料空き缶、菓子パッケージ、有名人の名刺、フィギュア…、3)文学者 鹿島茂氏(1949年11月生ま74歳)、フランス留学先でフランス文学に魅せられ本を蒐集、有るものを集めて、無いモノを作り出す…「一期一会、買っておけ」…。本日「コレクター」のレクチュアを通じて感じたことは、a)「コレクションは一つの世界観を作る」一つのものを長く追いかける→歴史軸の充実、世界中から集める→地理軸の充実…ジグソーパズルのピースが埋まっていく感覚と捉える事が出来ました。b)一期一会→「また今度」のチャンスは二度と来ない、真剣なる取組みが必要と捉える事が出来ました。c)金がかかる→絵画など値の張るものは勿論、空き缶など、それ自体に価値があまりなくても膨大なコレクション維持には場所代だって必要、世界中をとびまわって集めること自体にも金が掛かり…。追い求める「ひとつの世界」の為には、このa)b)c)が高い次元でバランスできれば、それを成し遂げたヒトの倖せはよりひとしおなのであろうなぁ、と考え至った次第です。当方今週の気付きですが、WBC世界一を成し遂げた侍Japan栗山英樹監督のインタビュでのヒトコトについてご紹介します、「選手達にどんな声を掛けましたか?」との月並みな問いに対し、「チームがJapanなのではなく、あなたがJapanなのです」「外に向かってあれこれ要求する事なく自分に何ができるか考えて行動して欲しい」と選手一人一人に全員伝えたとの事。今回のコレクションに限らず、事業の成功にはそこに至るプロセスで何をすべきか何ができるかを孤独に考え自ら行動する事がいずれの世界にも重要な事なのだと改めて認識出来たことが学びとなりました。新年度がスタートし心機一転新たな気持ちで公私個全方位で取り組んでいきたいと思います。有難うございました。
  • 本日も、幸福塾をありがとうございました。前回は体調不良で参加できなかったので、参加できたことを嬉しく思っております。今回はテーマがコレクターでした。既存のものを集めて再編成することで新たなものを創造するという考え方が響きました。創造はゼロベースから始めるものだと思い込んでいたからです。そして、創造は自己表現にもつながっていくのだと、気づかされた次第です。ありとあらゆる分野に研究者がいるのと同様にコレクターもいるのだと知った次第です。研究者とコレクターに何か共通するものがあるのではないかと思いました。モノを集めるのがハードル高ければ、スマホで写真撮ったり、言葉を集めたりするのもアリだと思った次第です。ただ、モノのコレクションから伝わってくるものは大きいのですが。 コレクターの存在って、逆に言えば、世の中にはいろんなモノがあるということに気づかされます。そのようなモノ達に意味を見出し、楽しみながら集めていくことで、結果として幸せを得られるのではないかと思った次第です。
  • 久恒先生、みなさま、本日の幸福塾ありがとうございました。今日は「集めること」の楽しんでいる「コレクター」について。ブリキのおもちゃを集めて「おもちゃ博物館」を運営している北原照久氏、空き缶や醬油入れ、フィギュアなど54種類ものコレクションがある森永卓郎氏、フランス文学の珍しい本を収集している鹿島茂氏の紹介があり、とても印象深く伺いました。3氏ともに徹底したコレクターで、集めた対象物の点数の多さに驚くとともに、投資した額や置き場所も半端ではないものと想像しました。特に鹿島茂氏の「オークションは借金してでも買っておけ」「コレクターは帝国主義者」「すべてを収集すると果てる=恋の病に似ている」などの言葉は、コレクターとしての「覚悟」や、集めることへの執着の凄さを感じました。またコレクションは「新しい世界を再編成し創造すること」「自己表現すること」「創造の営み」という話もあり、なるほどと思いました。(私自身は今、特に集めているものはないのですが、ウィスキーのミニボトルを集めている人がいて、私も集めてみようかと、ふと思ったりしました。)また、用意していたショーペンハウアーの「幸福」についての言葉の中に「幸福に生きるためには自分自身の中に楽しみを見出すこと」とあり、コレクターの幸せはまさにこれだ、と思いました。次回続編も楽しみです。
  • 久恒先生、皆様、本日の幸福塾ありがとうございました。  本日は、「コレクター列伝」がテーマで、コレクターをされている人物から、幸福とは何かを考える内容でした。ブリキのおもちゃ等を集めている北原輝久さんやフランス文学者で評論家の鹿島茂さんやミニカーや様々なものを集めている森永卓郎さんが紹介され、大変興味深かったです。 特に印象に残った人は森永卓郎さんです。森永さんのミニカー集めは知っていましたが、醬油入れやチョコボールの箱などを集めているのは、驚きました。なぜ集めているのか理解することが難しかったです。人には、無意味に思えるものも本人にとっては価値があるものなんだと実感しました。私も小学校の頃は、切手を集めていましたが、いつのまにか興味がなくなりました。集め続けるというそのパワーはすごいと思いました。何かに興味を持ち、何かを集めはじめて幸せを感じてまた集めて、そうしているうちにたくさん増えてくる流れができるのではと思いました。興味のあるものを集める活動やそれを集めた空間が、本人にとっての幸せやパワースポットになるんだろうなあと思いました。今までは、ものを集めすぎると物があふれて保管場所に困り、断捨離しにくく、不幸になるのではという考えを持っていたので、今回は違う視点から幸福について考えることができました。大変興味深いお話をありがとうございました。次回も楽しみにしています。
  • 本日もありがとうございました。「個人」の「ライフワーク」としてもこれまでとはまた違った「コレクター」といった切り口でいろいろな方の紹介がありました。コレクターの生き方からも多くのことを学ぶことができました。印象的だったのは森永卓郎鹿島茂です。森永卓郎は54種類ものコレクションで、ミニカーはまあ普通かと思いましたが、空き缶、醤油入れ、つまようじ、チョコボールの箱など、なかなか考えられないようなコレクションを、きちんと並べて整理しているのに驚きました。鹿島茂は、珍しい本を集めていることと、神保町でPassageという共同書店をやっていることに興味を持ちました。「集めて再編成して、新しい世界をつくる」「最終的に日本とは何か、人間とは何かを問う」「古書との出会いは一期一会」などの言葉も心に残りました。コレクターの条件は、時間と執念深さだということです。この、執念深さを自分は持ち得ていないと思うのであまりコレクターには向いていないかな、と思ったりします。深谷さんが最後にショペンハウアーの非常に参考になる言葉を紹介してくれました。「孤独を愛しなさい」。次回もまた楽しみにしています。
  • 本日も楽しいお話ありがとうございました。ものすごいコレクターの方のお話でした。あるものを集めて、ないものを作り出す。という言葉が面白いなぁと思いました。類似性のあるものを集めて、編集し、新しい世界が構築される、。いろいろな名言も聞けました。個人でものを集め、満足感、幸福を感じ、博物館などでみんなに見てもらうことで、自己表現する場を持て、さらに、観てくれた人に幸せを分けてあげられる。ここまでできると偉業ですが、自分が幸せになれそうなものを集めるのは、心身的に良さそうだと思いました。次回もコレクターのお話ということで、楽しみにしております。本日もありがとうございました。
  • 久恒先生、参加されたみなさま、どうもありがとうございました。今回は、「コレクター」について3人の方が紹介されました。北原照久氏、森永卓郎氏、鹿島茂氏、それぞれ「すごい!」と思うコレクションなのですが、凄さの内容が異なっていて面白かったです。共通するのは、お金または労力を長い時間かけてある物を集めた結果、現時点でものすごく大量の「ある物」がお披露目されていること。そしてそれを見た私たち(今日の参加者)は、「なんでこんな物を集めたんだろう。」と疑問に思ったり、「そうそう、あったあった、こんなのがあったよね。」となつかしんだり、「よくもこれだけ集めたもんだ。」と驚いたり、「私もほしかったのよねぇ。」と共感したりと様々でした。 また、コレクターとは何かということについて、「有るものを集めて、無いものをつくる。」とか、「集めたものから新しい世界を再編成して創造する。」という名言も紹介されました。誰もが何かを集めた経験が少しでもあるから、コレクターの凄さに驚き、披露されているコレクションを見てはじめて新しい世界に出会い、ある人は幸福感を味わう。コレクターが感じたであろう「集めるプロセスの楽しみ」を想像したり、コレクションを見て自分の経験やその時代を思い起こしたりする人もあるだろうと思いました。私も切手を集めたり、映画や演劇、コンアートに行くたびにパンフレットを購入したりしましたので、コレクターのみなさんのお話を聞いて、そのころのことを思い出し、楽しかったです。次回もコレクターの幸福感を紹介いただけるとのこと。女性のコレクターがいらっしゃったらと期待しております。引き続きよろしくお願いいたします。
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「名言との対話」4月5日。古河市兵衛「他人様のお掘りになったところを、サラにもう一間ずつ余計に掘りました」

古河 市兵衛(ふるかわ いちべえ、天保3年3月16日〈1832年4月16日〉 - 明治36年1903年〉4月5日)は、明治期の日本の実業家で、古河財閥の創業者。享年70。

京都出身。古河市兵衛は相馬家を買い取り名義人として立てて足尾銅山を買収した。志賀直道(志賀直哉の祖父)が市兵衛の共同経営者となり、その後渋沢栄一も共同出費者として名を連ねた。最初の混乱と苦労を乗り切って後、足尾銅山では立て続けに大鉱脈が発見され、銅の生産高は急上昇し、またたくまのうちに日本を代表する大銅山へと発展した。しかし鉱山の急発展の中、日本の公害問題の原点とも言える鉱毒問題が発生していくことになる。足尾銅山は昭和30年代末まで順調な採掘が続いたが、鉱物資源の枯渇、銅品位と作業効率の低下による赤字のため、閉山の方針を昭和47年に出した。

田中正造の活躍によって足尾銅山鉱毒事件は国家的事件となり、明治30年には政府も古河市兵衛に対し鉱毒予防工事命令を出し、短期間に防毒工事を完了させなければ銅山の操業停止処分を課すという厳しいものだった。実行不可能と言われた工事に市兵衛は巨額の資金を投じて誠実に期限内に完了させたが、当時の知識や技術では鉱毒の除去はできなかった。

「私はいつも「運・鈍・根」を唱え続けてきた。 運は鈍でなければつかめない。利口ぶってチョコマカすると 運は逃げてしまう。 鈍を守るには根がなければならぬ」。「根」が一番だという人もあり、また「運」だという人もいるが、古河市兵衛は「鈍」が一番大事だとの主張である。

冒頭の名言も、銅山をやった古河市兵衛らしく、「掘る」という側面から自分の信条を説明している。確かにあと少しだけ掘ったら宝が出たのに、諦めて多の場所に移動する人のなんと多いことか。事業でもそうだが、個人の興味・関心も浅くしか掘らずに転向する人は多い。まずは10年掘り続けることができるか、それが成否の分かれ目のように思える。

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古河市兵衛の事業は、古河財閥となっていく。2018年。王子駅の隣の上中里の「旧古河邸」を訪問した。明治元勲・陸奥宗光の別邸であった土地を古河財閥が購入し、洋館と庭園をつくった。陸奥の次男が古河に養子に入ったのが縁。政治家と財閥の関係がみえる。

洋風庭園と洋館は日本近代建築の父・ジョサイア・コンドル(1852-1920)の作品。洋館南斜面に3段に構成されたテラス上の整形式庭園と洋館東側に広がる芝庭なら成る。日本庭園は平安神宮や無隣庵で有名な小川治兵衛(18960-1933)の作品。武蔵野台地の斜面から注ぎ落ちる8mの落差を持つ4段の大滝とそこからの流れに渡された橋、築山と枯滝・州浜と雪見灯籠から成る池畔、茶庭と茶室を主要な構成要素とする廻遊式庭園。いずれも当代の第一人者に依頼するなど、財閥の力は大きいものだ。

洋館は、古河虎之助の本邸として1917年に建てられた。住まいと賓客接遇の場として使用された。1926年に虎之助が新宿に転居してからは、古河財閥の迎賓館となった。1階は賓客を迎える洋風建築、2階は生活の場であり和風建築。洋と和が調和された建物だ。第二次大戦後はGHQに接収され英国駐在武官の館となった。その後、放置されていた。近隣の人は幽霊屋敷と呼んでいた。昭和57年に東京都の文化財となり、平成元年より一般公開となった。1階にはビリヤード室、サンルーム(喫煙室)がある。応接室は見学者の喫茶室となっている。

この洋館の主の古河虎之助。明治20年(1887年1月1日 - 昭和15年(1940年3月30日)。写真をみるとハンサムという印象。歌舞伎役者が隣に並びたがらない程の絶世の美男だった。妻・不二子は西郷従道の娘で絶世の美女だった。古河財閥創業者・古河市兵衛の実子。3代目当主。古河財閥多角化に取り組み、総合財閥に発展させた功績がある。市兵衛の晩年の子で、母は柳橋の芸妓。

慶応義塾で小畑篤次郎の薫陶を受ける。普通部卒業後にニューヨークのコロンビア大学に留学。明治38年(1905年)に義兄・潤吉の養子となるが潤吉が36歳の若さで病没し3代目当主となる。また副社長として潤吉を支えてきた原敬も内務大臣就任のため古河鉱業を辞任。虎之助は1907年に帰国。

足尾銅山鉱毒問題で非難の声を漢和するため、1906年原敬の助言で資金難で設置が危ぶまれていた東北帝国大学九州帝国大学の校舎建設費用の寄付を申し入れた。その総額は5年間で106万円に達した。

第一次大戦では、銅の特需もあり古河虎之助は経営の多角化を推進し20社以上を束ねるコンツエルンに発展。1920年の戦後恐慌で経営が失速。1921に古河商事が破綻、1931年には古河銀行を第一銀行に譲渡し、総合財閥として欠かせない商社と金融機能を失った。一方で虎之助は古河電気工業富士電機製造、富士通信機製造など、後に親会社を上回る大企業を輩出させ、古河財閥は発展していった。1940年に虎之助は53歳で死去。養子である古河従純(西郷従道の次男従徳の次男)が継ぐが、敗戦後財閥解体を命ぜられる。

古阿財閥の例は、政界と財界が縁戚関係の構築によって持ちつ持たれつの関係にあったのがわかる好例である。

この3月のニュース目にした。古河三水会理事会社が共同で設立した一般社団法人古河市兵衛記念センター(2022年11月18日設立)が、1912年に竣工しその後移築・解体された当社旧足尾鉱業所を、往時の場所に「足尾銅山記念館」として復元する建設工事に着工することとなっている。これは実質的には古河市兵衛記念館となるだろう。