「幸福塾」で「戦後歴代総理編」を講義。吉田茂・鳩山一郎・石橋湛山から、村山富市・小泉純一郎・安倍晋三まで。

「幸福塾」は、「戦後歴代総理編」。

「国民の幸福」を増進するという重責を担った歴代総理15人は、「公人」「私人」「個人」としてどう考えていたか。今まで読んできた回顧録、日記、評伝などを材料に、総理たちの考えを追った。


  • 以下、塾生の学び。
  • 久恒先生、皆様、本日もおつかれさまです。幸福塾、本日のテーマは「戦後の歴代総理の回顧録・インタビュから見た幸福論」と題し、久恒先生からレクチュア頂きました。政治家とはいかなる仕事か→それは国民の倖せを請け負う事。夫々の時代を担った総理大臣その数17名の著作を一気に紹介頂きました。久しぶりの「言葉のシャワー」で、あっという間の2時間でした。①吉田茂(1878-1967 第45・48・49・50・51代)67歳で総理に、意外な「遅咲き」、国葬。養父の墓前で「資産は使い果たしたが勲章を頂いた」と詫びた。『吉田学校』池田、佐藤…後輩たちの多くは後の総理に。大磯の邸宅詣で、黒電話は首相官邸へ直通、人望が厚かった。②鳩山一郎(1883- 1959 第52・53・54代) 政治家一家、父は衆議院議長、母も偉い、朝3時半に息子を起こし、英漢数学を直伝。本人は多趣味、公職追放されるも軽井沢で農業に汗、脳溢血で倒れ「闘病生活は一つの精神闘争」と、長い人生の節目に考えを変える必要を説く。③石橋湛山(1884-1973 題55代)  小日本主義』植民地は要らない、組織・国家・イデオロギからの自由、多様性を重んじる思想。短い任期、もし長かったら、日本は変わっていたかもしれないと惜しまれる。④岸信介(1896-1987 第56・57代) 日米安保満州国では商工大臣、戦犯となり巣鴨拘で政治家への再起を誓い勉強。後継者に安部晋太郎、安倍晋三。⑤池田隼人(1899-1965 第58・59・60代) 『所得倍増論』で高度経済成長時代を演出。物事や数字を関連付けし説明する能力に長けた。私心を捨て薄氷を踏む思いで仕事に打ち込み、週末は別荘の庭いじりに没頭、一生懸命、人づくりは国造り。⑥佐藤栄作(1901-1975 第61・62・63代) 長期政権、沖縄返還。休日は子息とゴルフ、利権のしがらみを嫌い財界人とは呑まない。家族・親類との付き合いを重視。人事の佐藤。⑦田中角栄(1918-1993 第64・65代) スピーチ、「今日は聞けて良かった」と人に思わせる話をする。官僚との付き合い、手柄は部下に、叱るときはサシで、褒めるときは人前で、「できることは何でもする、責任は取る」痛快なオトコ!中国との国交正常化、大平正芳と訪問、相手は毛沢東周恩来。多額のODAで中国は発展した。⑧大平正芳(1910年-1980年 第68・69代) 外交がライフワーク、「改革」を信用しない。害を除く事を優先する、悪い事を修正する。⑨中曽根康弘(1918 2019、第71・72・73代)角栄と同い年、毎日東西の有名人と会い、話を聞き参考に。➉福田赳夫(1905-1995 第67代)  メモ魔、造語の名人、コピーライター、⑪竹下登(1924-2000 第74代) にこやか、気配り、調整こそが政治。⑫宮澤喜一(1919-2007 第78代) 長く池田勇人の秘書官を務め、サンフランシスコ講和会議(1951年)池田・ケネディ会談(1961年)など、戦後日本の針路を決定付ける重要な局面に立ち会い、「戦後政治の生き字引」といわれる。⑬細川護熙(1938- 第79代) 日記には、その日あった事件も書いた☞後に日本の動向が判った。⑭村山富市(1938- 第81代 ) 社会党党首、自民党が大幅に議席を減らした際組んだ経緯。「古い体質を変えるチャンス」だった。村山談話、『遠くない昔…多大な損害と苦痛を与えた』歴代総理はこれを言い続けた。明治大学夜間部卒の苦労人。⑮小泉純一郎 ( 1924-第81代) 郵政民営化北朝鮮拉致被害者救済(この後誰一人訪れていない)、反発が有る方が分かり易い官僚には「対案を出せ」と言った。⑯安倍晋三(1954-2022 第 90 ・ 96 ・ 97 ・ 98 代)、10月迄インタビュ、翌2月に暗殺 により死去、アベノミクス、アベノマスク、感染症対策の反省、プーチンとの27回にわたる会談の上北方領土返還問題を反故にされた罪。⑰小渕恵三(1937-2000 第84代) 『凡宰伝』凡人で良い、継続が大事、最後は凡人でなくなる…。戦後78年間、様々な総理大臣がその時代生き、実績が後世まで語り継がれるヒト、事件でその座を追われるヒト本当に様々な姿を横並びに一気に眺める事ができた事は非常に良い体験でした。田中角栄(交通インフラ構築:日本列島改造論)、中曽根康弘原発推進)といった当時の総理大臣が日本の産業構造に大きく影響を与えた『エポックメイキング』を思い返す事が出来ましたが、果たして今後も低成長が続く日本に一打逆転するような一大エポックがやってくるのか?先ずは愚直に今の最善を継続するしかない(小渕さん方式か!)と考えた次第です。総理シリーズも戦前、明治とスコープの広がりが感じられ今後も非常に楽しみです。有難うございました。次回も宜しくお願い致します。
  • 久恒先生、みなさま、本日は幸福塾ありがとうございました。今日は日本の戦後歴代総理を回顧録を通して概観するというもので、吉田茂、鳩山一郎、石橋湛山、岸信介、池田勇人、佐藤栄作、田中角栄、大平正芳、中曽根康弘、竹下登、宮澤喜一、細川護熙、村山富市、小泉純一郎、安倍晋三の各氏について、それぞれのエピソード、残された言葉、考えていたこと、などを辿りました。紹介いただいた中で、印象に残ったのは大平正芳氏の言葉。「大改革といって成功したためしはない」「大きく飲み込み 解毒しつつ消化する」「立派なものはこの世にない」など。分かり易く本質を捉えていて今日にも通じる言葉だなと思いました。また、池田勇人氏の「国づくりは人づくり」「大衆は一所懸命かどうかを見ている」なども印象に残りました。「回顧録」を通してみると、その人の身の回りの事柄や 人となり  なども分かり、これまで思い描いていた人物像とは違ったイメージも浮かんできて、面白く感じました。諸外国には回顧録を残す慣習があるとのこと。例えば「サッチャー回顧録」や「チャーチル回顧録」などがあるが、日本には少なく、そうしたことの背景には、歴史的な経緯がある、との話も大変興味深く伺いました。次回の幸福塾も楽しみです
  • 本日もありがとうございました。歴代総理の回顧録や日記などからのお話でした。新聞やテレビなどでみる公人の部分しか知らない部分を少し知ることができました。人と会うことが仕事なのだなぁと思ってましたが、みなそれぞれの休日の過ごし方があったことが興味深かったです。吉田茂は趣味が多く独自の考えでものにしてしまう。石橋湛山の何事も運命だよ。佐藤栄作日記には家族のことがよく出てくる。週末は二人の息子とゴルフ。池田隼人は週末は別荘へ、勉強家でゴルフや料亭にはいかない。など、思っていたのと逆で新鮮でした。逆に、中曽根康弘は毎日超一流の方々と会っていたなど、それぞれなのだなと改めて思いました。回顧録というのは、書籍にしようと思って書かれているから公人のことが中心となってしまうのかな。と思いました。外に出す予定がなかっただろう日記などは、私人個人のことが書かれていて人となりもわかり、良いですね。毎回たくさんの方々の情報をありがとうございます。次回も楽しみにしております。
  • 今日は、様々な戦後歴代の内閣総理大臣回顧録ついてお話をお聞きしました。回顧録は今まで、読んだことがないのでとても参考になりました。 吉田茂鳩山一郎石橋湛山岸信介池田勇人佐藤栄作田中角栄大平正芳中曽根康弘竹下登宮澤喜一細川護熙村山富市小泉純一郎安倍晋三回顧録が紹介されました。特に印象に残ったことは、ニュースで知る公人としての仕事だけではなく、家族との関わりや個人の生活を知ることができたことです。例えば、夜は料亭に行かなかったり、ゴルフはやらない、休みはできるだけ家族や親せきと過ごすなど他の総理とは違う生活を送る総理もいて大変興味深かったです。また吉田学校といわれるグループや田中派から総理が出たり、代々政治家の一家だったり、人間関係やつながりが、よくわかりました。ニュースや新聞で知るより、回顧録で知る方が、その人の人間味が溢れている話を聞ける気がしました。度量が大きいと感じた話の内容は、田中角栄が大蔵官僚を前に「君たちは自由にやれ。すべての責任はこの田中角栄がとる」と言った言葉は、とても度量が大きく頼りになると思いました。回顧録で振り返るとなぜあの時あの判断をしたのかということがわかったり、その人の人柄も知ることができ、回顧録の大切さがよくわかりました。次回も楽しみにしてしております。
  • 本日もありがとうございました。本日は戦後の歴代総理の回顧録や自伝などから、新聞やテレビのニュースから見えなかった、それぞれの生き様などを知ることができました。若い時から「60年安保」「ロッキード事件」「リクルート事件」「モリ・カケ・桜」など自民党や首相について利権や権力闘争にまみれたマイナスのイメージを多くもっていましたが、最近になって見方が少しずつ変わってきました。先日の寺島実郎の「世界を知る力」対談編で2人のゲストの代議士が絶賛していた石橋湛山に、一番興味があります。また、大平正芳については読書家で哲人だということや「アー、ウー」が実は言葉を選ぶのに熟考しているということを最近知りました。歴代総理の回顧録などにみる幸福論、とてもいいアイディアだと思います。次はどんなテーマか、楽しみにしています。
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    「名言との対話」6月14日。松平定信「いや、こういう時こそ、人心を一新する絶好の機会だ。不幸をかえって幸いとすべきだ」
    松平 定信(まつだいら さだのぶ、宝暦8年12月27日1759年1月25日〉- 文政12年5月13日1829年6月14日〉)は、江戸時代中期の大名老中
    8代将軍徳川吉宗の孫。父は三卿の田安宗武儒者大塚孝綽に師事して幼時より学問に励み、わずか12歳で『自教鑑』という修身書を著すなど俊才の誉れが高かった。

    1774年奥州白河藩主松平定邦の養子となり、1783年に家督を継いで白河11万石の藩主となった。天明の大飢饉に際会し上方より食糧を緊急輸送して領内の窮民を救済する。藩の財政支出の抑制と風俗の改良のため、徹底した倹約を断行し、白河藩政の建直しに努め実績をあげた。

    1787年、定信は老中首座に抜擢された。田沼意次失脚後の幕政を担当し、6年間にわたる「寛政の改革」を主導した。この改革は祖父である吉宗の「享保の改革」が手本であった。「予を殺そうとも、妻子を殺そうとも、天下の災を止めたまえ」という決意であった。

    田沼の金とコネのよる賄賂政治を厳しく批判し、財政緊縮、綱紀の粛正、農村復興、出版・思想の統制などの改革政策を断行した。ロシア船の来航を機に海防にも力を尽くした。

    寛政の改革は、財政の建直しや民生の安定に一定の成果を収めた。漂流しロシアの地を踏んだ大黒屋太夫が9年半ぶりに日本に帰ったとき、松平定信桂川甫州に聞き取りをさせ、北槎聞略』という地誌を完成させ蘭学発展に寄与している。太夫一時金30両を与えられ、月3両の手当をもらい、千代田区番町に住み78歳まで生きている。

    米沢藩中興の祖・上杉鷹山は今日の行政改革にもたびたび登場するが、当時の老中であった松平定信は鷹山を高く評価し「百諸侯第一の賢君」と讃えている。また頼山陽は「日本外史」を書き、定信に献上している。

    2008年に野田一夫先生と富田さんと白河高原カントリークラブでゴルフを楽しんだとき、松平定信が愛した温泉の湯という触れ込みのお風呂に入ったことがある。

    2021年に多摩川沿いの万葉歌碑を母と訪ねた。多摩川に晒す手づくりさらさらに何ぞこの子のここだ愛しき」という歌が彫ってあった。刻まれた文字は松平定信の筆だ。また裏面の陰記は渋沢栄一の撰文と書である。文化文政時代は、行楽が盛んで、多くの文人墨客が多摩川を訪れていた。多摩川の美しさに魅せられていた平井有三(元土浦藩士)が、名勝づくりを発起し松平定信に依頼し、文化2年(1805年)この歌を石に刻みつけ、多摩川堤防の町側に土手を築いて建てたのである。

    松平定信は将軍家斉らとの対立、そして「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」と揶揄されるなど緊縮政治による人心の離反もあり、1793年に老中および将軍補佐役を免じられ、白河藩政に専念する藩校の立教館の充実、庶民の教育の郷校などを建設。居合、砲術、弓術なども自身が改良している。文化活動も奨励した。1812年家督を譲り隠居。

    著作は自叙伝『宇下人言』、これは「定信」を分解したタイトルで面白い趣向だ。他に『国本論』、『花月草紙』、和歌集『三草集』、『集古十種』などがある。定信には白河楽翁などの別名がある。文武両道に長けたこの人物は、危機にあった幕閣での大仕事に立ち向かい、自藩においても文武を奨励した。辞世は「今更に何かうらみむうきことも楽しきことも見はてつる身は」である。自らも風流を楽しんだ松平定信らしい辞世だ。

    若き日に白河藩主となった夏の浅間山の噴火による降灰、利根川の洪水、冷夏などによる、凶作で餓死者があふれた状況で、家臣が悪い時期に家督を相続されましたなと言ったときに、定信はかぶりをふって冒頭の言葉を吐いた。そして率先垂範して質素倹約につとめ、また人口増加策などを実施し大きな成果をあげている。環境、状況が悪いときこそは、改革のチャンスなのだ。