松田の「桜まつり」。大山阿夫利神社。広沢寺温泉の万葉歌碑。

松田の桜祭り。河津桜の名所。


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大山阿夫利神社関東三大不動。326段の階段を登る。


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広沢寺温泉の万葉歌碑。中西進の揮毫。

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「名言との対話」6月12日。大平正芳「「一利を興すは一害を除くにしかず」

 大平 正芳(おおひら まさよし、1910年明治43年〉3月12日 - 1980年昭和55年〉6月12日)は、政治家内閣総理大臣

衆議院議員(11期)、内閣官房長官(第21・22代)、外務大臣(第92・93・100・101代)、通商産業大臣(第31代)、大蔵大臣(第79・80代)、内閣総理大臣(第68・69代)などを歴任した。1980年の衆参同日選で急死した。

外務大臣時代に多くの懸案を処理している。大平外相は、韓国とは経済協力によって請求権問題を解決し、国交樹立の糸口を開いた。最大の懸案は日中関係だった。日本と中国は大晦日と元旦にように近いようで遠いと発言している。日中航空協定締結時には「幕末の井伊大老ではないが、八つ裂きにされてもやる」と言って成功している。

大平正芳は日中関係というけれども、実際は日台関係だよ」と口癖のように外務省職員に語っている。日中関係を考える時に、寛大な戦後処理をしてくれた蒋介石率いる台湾との友好関係をどうするかが、頭の痛い問題であるという意味だった。日台関係、日中関係は、実際は日日関係の部分が大きかった。日本と中国との関係、日本と台湾との関係は、国内の中国派と台湾派との関係に尽きるということなのだ。日中国交正常化では田中角栄首相・大平正芳外相が事に当たったが、残る問題は友好関係にあった台湾であった。台湾派議員のリーダー的立場だった椎名悦三郎自民党副総裁は蒋介石の台湾を訪問し、日中国交正常化の経緯とその後の日台関係についての説明をすることになる。彼ら特使一行は当然手荒くもてなされる。大平は日中国交正常化にあたって周恩来が賠償請求を放棄してくれたことに感謝し、対中借款に力を入れた。

韓日議員連盟の初代会長を務めるなど韓国政界における知日派の重鎮として知られ、日本での知己も多い金 鍾泌は、日韓国交正常化の韓国側の立役者でもあった。1962年の大平正芳外相との日韓交渉では、「今は過去の問題よりこれからの成長の方が重要である。そのためには日本の援助が必要だ」との思いで、「無償3億ドル、有償2億ドル」で対日請求権問題に決着をつけ、日韓国交正常化へ道を開いている。

服部龍二大仏次郎論壇賞を受賞した「日中国交正常化---田中角栄大平正芳、官僚たちの挑戦」(中公新書)でそのそ存在を知った政治学者である。服部はこの本を書くために大平関係の本と資料を全部読み込んでいる。巻末の参考文献は300冊近い。大平正芳(1910-1980)は、外交をライフワークとした哲人宰相であった。戦後の外務大臣としては最も在任期間が長く、また実績も素晴らしかった。
盟友の田中角栄の支持を得て総理に就任したのはようやく68歳の時である。大平は何度も好機があったにもかかわらず、田中角栄三木武夫福田赳夫に先を譲っていた。三木武夫の後を受けて1976年に71才で総理に就任する。そして田中派が支持する大平正芳に敗れた時には、「民の声は天の声というが、天の声にも変な声もたまにはあるな、と、こう思いますね。」とも語っている。しかし、大平は外遊の無理がたたって70歳で総選挙の最中に亡くなっているから在任期間も2年であった。

  • 均衡と中庸。だえんの哲学。物事には二つの中心があり、どちらかに傾斜することなく、中正の立場を貫くのが重要である。統制と自由、権力と国民、課税者と納税者、、、、。
  • 生涯の節々にその支点となっている「永遠の今」、その「永遠の今」に恵まれた決意によって身を処し、その決意によって織りなしてきた自分の人生絵巻、、。
  • 神が「永遠の今」という時間を各人に恵み給うたことは、自分は自分としての永遠に連(つが)る寄与をするよう期待されてのことではないでしょうか。まず自分の自分なりの確立が大切です。それには、その根幹を貫くバック・ボーンがなければならない。それは自分の勉強と思索と反省から生まれて、不断に成長する自分自体の方法論であろうと思います。これなくしては、私共は歴史から疎外されてしまい、その形成に参加する資格がなくなるわけです。
  • 共産主義も弾圧ではなく、大きく呑み込み解毒しつつ消化しなくてはならぬ。
  • 人間というものは、閑職にあるときこそ勉強できるし、人との交際も密になって、いろいろと得られるところが多い。
  • 栄辱は天に問い、進退は命に従ってまいるべきだ。
  • 立派なものはこの世の中にはないと思う。私は改革ということに対して、その点についてはややニヒルでしてね。
  • だまされても、それが国のためならいいじゃないか。
  • 「均衡と中庸。だえんの哲学。物事には二つの中心があり、どちらかに傾斜することなく、中正の立場を貫くのが重要である。統制と自由、権力と国民、課税者と納税者、、、、。」
  • 「今共産主義も弾圧ではなく、大きく呑み込み解毒しつつ消化しなくてはならぬ。」
  • 「立派なものはこの世の中にはないと思う。私は改革ということに対して、その点についてはややニヒルでしてね。」

 


四国の香川県観音寺市の記念館に訪問して、読書家であった大平の蔵書をのぞいたことがある。佐藤一斎の「言志四録」も愛読書だった。また大平は文章家でもあった。

座右の銘は「一利を興すは一害を除くにしかず」である。保守政治家の面目躍如だ。大平には大向こうをうならぜるような言葉は吐かない。一歩一歩少しづつ着実に歩を進める。一挙の改革では無く小さな改善を継続する。そうすると万里を超えて、大洋に届くというのが信条であった。これが本来の保守の姿だ。また反対派は大きく飲み込み解毒し消化するという大いなる妥協の精神もこの人の真骨頂だろう。