東京都立大学の「牧野富太郎」展を訪問。

本日から始まった、「日本の植物分類学の父」牧野富太郎が遺したもの展を東京都立大学牧野標本館(南大沢)で見学。

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佐藤一斎の『言志四録』。40年にわたって書いた語録。総1133条。

  1. 言志録:全246条。佐藤一斎42歳(1813年)から53歳(1824年)までに執筆されたもの
  2. 言志後録:全255条。佐藤一斎57歳から67歳までに執筆。
  3. 言志晩録:全292条。佐藤一斎67歳から78歳までに執筆。
  4. 言志耋録:全340条。佐藤一斎80歳から82歳までに執筆。

四書五経易経から引用された文章が多く、処世学、精神修養の書。

私がもっとも納得しているのは、『言志晩録』第60条「少にして学べば、則ち壮にして為すことあり 壮にして学べば、則ち老いて衰えず 老いて学べば、則ち死して朽ちず」だ。

一身にして二生をいきるとか、人生は65歳からが勝負とか、もう一花咲かせようとか、そういうことではない。江戸後期を生きた佐藤一斎は88歳の長寿だった。青年期、壮年期、実年期、熟年期という考え方から人生100年時代のモデルとみるのも面白い。

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「名言との対話」7月15日。黒田清輝「始終骨なし人形ばかり描いていて、いつまでも美術国だといっていられるか」

黒田清輝(1866年8月9日(慶応2年6月29日) - 1924年大正13年)7月15日)は、日本の洋画家、政治家。東京美術学校教授、帝国美術院院長(第2代)、貴族院議員などを歴任した。

黒田は法律をテーマにフランスに留学したが、転向し洋画家を目指す。日本にいた時は政治社会で名をあげようと考えていたが、絵を極めることは大臣になることと同じだといい、不遇困難を辞さずに「画学をもって一身を立てんと存じ候」と養父に決心を書き送っている。

黒田は几帳面な人で、神社への礼拝を欠かさず、日記も毎日書いた。一方で友人の暴力沙汰を機知と外向性で切り抜けるという面も持っていた。

上野の森にある東京芸術大学の一角に、黒田(清輝)記念室があり、2006年に訪問した。日本近代洋画の父である黒田清輝の、代表作「湖畔」には目を引きつけられたことがある。湖畔でうちわを持ち物思いにふける美女の姿を描いた傑作である。まろやかで迫力があり美しい。

松方幸次郎は購入した作品を持ち帰り、美術館を建てて公開する準備をしていた。その美術館は「共楽美術館」と名づけられる。1919年に共楽美術館設計図が日本到着。黒田清輝バーナード・リーチらが美術館設立構想を話し合う。これが後の国立西洋美術館につながっていく。

夏目漱石は第6回文展の様子を朝日新聞に書いている。黒田清輝など大御所には厳しい評価もしているが、青木繁坂本繁二郎には高い評価を下している。三四郎『』の中で「森の女」という絵画を見ながら美禰子が「ストレイ・シープ」と口走る光景がある。この作品を小説の中の言葉を手掛かりに描いた作品も展示されていた。黒田清輝の作品を思わせる。(2013年の東京芸大美術館で「夏目漱石の美術世界」展)

さて、黒田清輝に学んだ画家は多い。近代に活躍した画家たちをテーマとした美術展などで、黒田の名前はよくでてくることかわわかるように、アカデミックな画風が支配的となる。確かに黒田清輝は「日本近代洋画の父」の名にふさわしい。以下、私がみたエピソードを記す。後輩たちに四半世紀にわたり、なんらかの影響を与え続けたことがわかる。

  • 藤島武二(1867-1943 )・岡田三郎助(1869-1939 )両画家の師匠であった黒田清輝は、岡田の特色は「形よりも色に於いて勝るれて居る」と評した。岡田君は初めからこういう絵を描くこうと考えて掛かり、そしてそういう画になると、黒田は言っている。そして岡田君は面倒臭いということを知らないとも評している。(2011年の横浜そごうの「藤島武二・岡田三郎助展」)
  • 明治、大正、昭和にかけて風景画家の第一人者として活躍した吉田博(1876-1950 )は「絵の鬼」「早描きの天才」「煙突掃除屋」「黒田清輝を殴った男」「反骨の男」などの異名がある。一種の快男児だ。(2019年の河口湖美術館で開催中の「没後70年 吉田博展」)
  • 杉浦非水(1876-1865 )は当初日本画家を志したが、黒田清輝邸に寄寓していたおり、ヨーロッパから持ち帰った書籍や資料をみた。1900年のパリの大博覧会から帰った黒田清輝は、「杉浦(非水)君は欧風図案を研究して、さらに日本的図案を創作してみたらどうか」と図案、デザインへ道を示唆した。非水は「断然図案の方面に進出して行かうかち云ふ」ほどの衝撃を受けた。現代日本グラフィックデザインの礎を築いた人物の一人となっている。(2021年の「たばこと塩の博物館」で開催中の「杉浦非水 時代をひらくデザイン」展。2019年の東京国立近代美術館「イメージコレクター 杉浦非水」展。
  • 青木繁(1882-1911)は上京し東京美術学校に入り、黒田清輝の指導を受けている。(2022年に青木繁旧居」を訪問)
  • 南薫造(1883-1950)は、広島県初の東京美術学校西洋画科入学生としてし岡田三郎助、黒田清輝に学ぶ。(2021年の東京ステーションギャラリーで『南薫造』展)
  • 16歳でキリスト教に入信した岸田劉生(1891-1929)は、絵を描くことが自らを生かす道だと感じて、白馬会の洋画研究所に入り、黒田清輝に師事するが、20歳で信仰を捨てて、武者小路実篤白樺派に傾いていく。(2009年の損保ジャパン東郷青児記念美術館の「没後80年 岸田劉生 肖像画をこえて」展

黒田がフランス滞在中に描いた裸体画を公開しようとしたとき、それは公衆道徳に反するとの批判があり、裸体画論争が巻き起こった。日本美術の発展のためには、人体デッサンが重要と黒田は主張した。「裸体画の悪いということは決してない、悪いどころか必要なのだ」と言い、骨なし人形しか認めてこなかった日本美術界に新風を吹き込む革命児となった。明治という時代は、あらゆる分野に使命感を持った革命児がいたことがわかる。