「蓋棺録」を読む。

文藝春秋の「蓋棺録」を毎月読んでいる。棺桶の蓋を閉めるという意味の言葉だが、生涯を終えた直後という感じがあり、厳粛な気持ちになる。似たような言葉に、墓碑銘、エピタフ、追悼、弔辞などの言い方もあるが、蓋棺録という命名は秀逸だ。

エピタフ(墓碑銘)は、墓の上に死者の生前の功績をたたえて墓石に、詩の形式で刻まれる。すぐれた詩人は生前に自分のエピタフを準備していた。BC3000年から古代エジプトであった風習。

以下、2023年の「蓋棺録」から。

参考

シェークスピア「良き友よ、主の名によりて、ここに眠る遺骨を掘り起こすなかれ。この墓石を動かさざる者に祝福を、わが骨を動かす者に呪いあれ」

ディオファントスの人生は、6分の1が少年期、12分の1が青年期であり、その後に人生の7分の1が経って結婚し、結婚して5年で子供に恵まれた。ところがその子はディオファントスの一生の半分しか生きずに世を去った。自分の子を失って4年後にディオファントスも亡くなった」

十返舎一九「此世をば どりやおいとまに せん香と ともにつひには 灰左様なら」

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「名言との対話」8月15日。松浦静山(清)「甲子夜話

松浦静山(まつうらせいざん 1760年3月7日ー1841年8月15日)は、江戸時代の中後期の大名。享年81。

1774年壱岐守、1775年肥前国平戸藩の藩主。藩財政の窮乏にあたり、『財政法鑑』、『国用法典』をあらわし、財政再建と藩政改革の方針を定め、藩校・維新館を創設するなど人材の教育と登用を行い、成功している。

1806年に隠居。1821年に懇意だった儒者・林述斎が先祖の松浦鎮信の『武功雑記』を書いたことが話題になり、「君もやるべし」とすすめた静山はその夜から筆をとった。

田沼意次の田沼時代、松平定信寛政の改革時代のできごと、シーボルト事件、大塩平八郎の乱などの記述がある。社会風俗、人物の逸話、人物胆、海外事情、そして魑魅魍魎ににまで及んだ。

「大石の輩」と呼ぶなど赤穂浪士の義挙は評価しない。上杉鷹山は「寛政の名君」と呼んだ。石田三成は大いに評価。新井白石は嫌った。白石が登用した室鳩巣は腐れ儒者とののしっている。京都方広寺の大仏消失の経緯。鼠小僧の話題。京都と江戸での鈴虫と松虫の呼び方が逆のこと。怪談、伝承にも筆が及んでいる。

死去する1841年まで書き続けた『甲子夜話』は、正編100巻、続編100巻、三編78巻に及んだ。

静山は藩政改革を成功させて40代半ばで隠居。その後は地球儀を手に入れるなど蘭学に関心を寄せている。また戯作や黄表紙にも興味があり、肉筆浮世絵の蒐集も行っている。そして60代の初めから随筆を書き始め、80代の初めまでの20年間にわたり執筆を続けたのである。

青年期は藩政改革、壮年期は隠居し気の向くままに学び、収集に費やし、実年期は培った経験を土台に、随筆の執筆を始め、ついに大著作集を完成させている。こういうことがいえそうだ。1正編100巻、続編100巻という区切りに、ライフワークの完成をにらんでいたという感想をもった。計画的な大事業だったのではないだろうか。

友人から随筆を書くことをすすめられたその夜から始めたというところが、この静山の刮目すべき点だ。そしてそれを20年続けたことがさらに偉い点だ。

この人の生き方は、今を生きる私たちにも大いに参考になる。