橘川幸夫編『女子高校生いまー令和JKココロのひきだし』(バジリコ)

8月8日発刊の橘川幸夫編『女子高校生いまー令和JKココロのひきだし』(バジリコ)を読み終わった。

世代論からいうと、団塊世代現代っ子)の子どもの団塊ジュニアの子どもたちだ。団塊の孫たちだ。現在16歳、それは2007年生まれ。アイフォーン発売の年だ。その前の世代はインターネット、その前はテレビというメディア環境にあったが、この世代は生まれた時からスマホを持ち歩くなど自分ちメディアが一体化している。それをこの本ではメタ世代と呼んでいる。このメタ世代の行動と内面をインタビューでさぐった問題作だ。

人は何によって世の中を知るか。以前は働く父から知ったのだが、戦後はテレビ、インターネット、スマホというメディアで現実の世界を知るようになった。最初に形成される世界観はメディア環境からつくられる。だから、世代論はなお有効なのだ。

この本では、少女から大人への過渡期を生きているスマホ世代の現役女子高生を、以下のように14に分類し命名している。

「自立型表現者」「ポジティブなマイノリティ」「学外活動派女子」「生来のリーダー気質」「メタJK」「青春謳歌系女子」「デジタルネイティブ・ガール」「家族最優先のヤングケアラー」「天然マイペース少女」「都会派クール」「ピカピカ自分磨き」「SDGsガール」「漂流する病み+界隈系女子」「人生刹那系JK」。

  • 新語などーー腐女子。ヲタ活。先生ガチャ。ラノベ。タイパ。推し活。箱推し。タメ。トー横キッズ。きょうだい児。垢抜け。オタク系、部活系、勉強系。パパ活。裏引き。ホストクラブ。コンカフェ。育てゲー。
  • 家族ーーリビングにいる。スマホで世界につながっているから個室にはこだわらない。親とは仲がいい人が多い。母親とは親密、父とは可もなく不可もなく。
  • 自立と自由。ーー知らない人知る。知らない世界。日々の小さなことで幸せ感。VRで世界の広がり。自分磨き。整形。白湯。インプット型ヲタクとアウトプット型ヲタク。部活は強い。卒部は悲しい。
  • なるほどーー「ネットはすぐ関係が切れるのがラク」「最低賃金を引き上げるより扶養控除限度額を引き上げて欲しい」「サッカー部より人気のある野球部」。「最先端の教養はYouTubeから」。通信制高校は自由でいじめがない。複数のアカウントで自衛。コロナの影は大きい。
  • 将来像ーー海外を飛び回る生活。人の役に立つ。電車で通勤する人になりたくない。幼稚園の先生。ロボットやAIにとって代わられないような仕事。結婚はしてみたいという感覚。子どもは半々か。起業が人気。「自分で会社をつくれば好きなことを仕事にできるし、何個も掛け持ちすることもできる」(父)。子どもの貧困や教育というテーマ。好きなこと、やりたいことに挑戦できるような社会。

男子高校生はゲーム、アニメ、アイドル、部活がメインで、まだ幼く子どもが多い。しかし女子は多彩、そしてよく考えていて大人への階段を登っている感じがする。取材にあたった団塊ジュニアの渕上周平は「みんなオトナだった」と総括しているのはおかしかった。自分を持ち、しっかりしているという感想だろう。

私は人には「公人・私人・個人」という3つの側面があると考えている。女子高生に当てはめると、学校は公人、家族は私人だ。そういう枠から飛び出して女子高校生は個人を生きている人が多い。

個人の活動は、「バイトと推し活」が中心で、ここで広い世界に触れたり、大人を知ったり、広い友人関係をリアルに保持している。必要だとされる「第三の場所」とはこのあたりのことだろう。大人にもサードプレイスが必要だという話題と同じだ。定年後の男性たちは「個人」の欠落に気がついて、もがいている人が多いが、彼女らは対象がまだ狭いのだが、「個人」の領域を意識的に深めようとしている。ここには希望がある。

この「広大な放課後」で、女子高生は自分磨きをし、垢抜けしながら、生きていこうとしている。大人とは自分で稼いだお金で自由に使える人と彼女から定義づけしてしている。そこへ向かおうとしている姿があった。垢抜けって「自己啓発」のことだなと共感。

私は結婚が遅かったこともあり、孫はまだトップが小学生高学年だが、あと数年もすれば、こういう女子高生になっていくのだろう。その予習ができたのはありがたい。

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「名言との対話」8 月14日。五島慶太「「ものごとはすべて大きく考えること。おじけづいていては成功しない」

五島 慶太(ごとう けいた 旧姓・小林、1882年明治15年〉4月18日 - 1959年昭和34年〉8月14日)は、日本官僚実業家

長野県出身の五島慶太(1882年−1959年)は、日本の経営者。東京急行電鉄(東急)の事実上の創業者。東京高等師範学校、東京帝国大学法学部を卒業後、農商務省と鉄道院で約9年間官僚として活動。その後退官し、武蔵電気鉄道専務、目黒蒲田電鉄専務、東京高速鉄道常務などを経たのち、東京横浜電鉄目黒蒲田電鉄の社長となって実質的な経営権を獲得し、2社を合併し東京急行電鉄を発足させた。

『飛竜の如くー小説・五島慶太』(光文社文庫)を読んだ。五島は東京高等師範学校入学試験に合格。当時の中学、商業、工業学校の教師となれば、その社会的な 立場 は現代と比較しようもなかったが、元来、慶太の志は、実業界にあり、一介の田舎教師で生涯を終えようなどと、毛頭考えてもいなかった。「志を失ったら、男子とはいえない」という慶太は、政治家の原敬と実業家の雨宮敬次郎を尊敬していた。二人には志があった。
第一高等学校卒業検定試験に合格。東京帝国大学本科に転入学。法科政治科に在籍する。高等文官試験に合格し、農商務省に入省。結婚した妻の久米家の祖母方の実家、絶家になっていた五島家の姓を再興。  慶太は五島と改姓している。加藤高明から「俺が話をつけてやるから、鉄道院に転じてみたまえ」といわれ転じた。

強引な事業手法から「強盗慶太」と呼ばれた。しかし慶太にすれば買収、合併は、経営者の慣いだと考えているのだけれども、世間はそうは見ずに、五島の姓をもじって、 「強盗慶太」と呼んだ。「合併されて生き残れたほうが、社員もよかろう」。 少なくとも路頭に迷うことはないからだ。「従業員を路頭にまよわせる事態に、直結いたしかねない。倒産、破綻するまで、自分たちが経営の責めに任じるなどは、そのほうが悪である」との考えであった。いくつかの敗退のエピソードもあるが、負けっぷり、引き際もよかった。 五島慶太堤康次郎は、東急対西武戦争(箱根山戦争・伊豆戦争)でライバルだった。「そもそも五島という奴は、人が苦心してつくりあげたものを、強引に乗っ取るのを愉快だと思っている」と批判。康次郎は「 ピストル堤」の異名を持つやり手経済人だった。「強盗慶太」と「ピストル堤」の戦いであった。

五島は鉄道事業で優れた経営を行い同社を急成長させた。10歳年長の小林一三との出会いも大きかった。小林は五島の資質を見抜いた。「実業界なら奮励努力することで、その成果を楽しむことができる」。どうしようもないぼろ会社、武蔵電気鉄道の常務に転じることになった。経営内容が「火ノ車」であり、悪戦苦闘しながら経営を立て直していく。
その後、小林一三からの「田園都市株式会社にきてもらいたい」との申し出に応じた。関東大震災の直撃は慶太に幸いした。慶太は政財界人、高級官僚の間を走りまわり、現在の大田区田園調布の一帯を、一区画三百坪以上の条件で売り歩いた。「人間の 合縁奇縁 ほど奇妙なものはない」。

東横電鉄は小田急電鉄、京浜電鉄を合併、資本増強し、東京急行電鉄と商号を変更した。 結果、「強盗」の悪名は、決定的なものになった。東急が発展し首都圏の鉄道を合併したあと、分割することになった。「旧京王単独では非常に規模が小さいから、独立させても大変だろう。旧帝都と一緒にして、井の頭を線をつけよう」。今日の京王線の姿は五島の采配であったのだ。

官吏、実業家、政治家という仕事についてはこう語っている。

  • 「官吏というやつは、人生の盛期を役所で懸命に働いても、ようやく完成の域には仕事をはなれなければならない」
  • 「金儲けは易しいが、経営とは違う。世のためになって利益を上げるのが経営。だから経営は難しい。」
  • 「若いころから自分の心にかなった事業を興してこれを育て上げ、年老いてその成果を楽しむことのできる実業界に比較すれば、いかにもつまらないものだ。」
  • 「政治家なんぞ、碌なものではないぞ。いざとなったら、薄情な奴ばかりだ」

五島慶太が集めた美術品を展示する五島美術館がある。2105年に開館55周年特別展を見にいったことがある。1960年に開館ということは五島がなくなった翌年だから、亡くなる前から十分な準備をしていたのだろう。官吏の生活を経験し否定し、実業の分野に進んだ五島の果実の一つが美術館だったのである。

 「ものごとはすべて大きく考えること。おじけづいていては成功しない」は賛同したい名言である。 「できるかできないか、やってみなければわからんではないか。いや、できなくても、やらねばならん」という「百万人といえでも我ゆかん」の精神にも感銘を受ける。

小さく、細かく、慎重に企画を練ってはいけない、ということを五島は語っているのだと思う。賛成だ。最初は無知でいいのだ。大きく発想し、大胆に歩もう。