小島政二郎『明治の人間』ーー明治の人の偉さの中身を教えてもらった

小島政二郎(1894年1月31日ー1994年3月24日)は、小説家、随筆家、俳人。享年は100。明治27年生まれの小島政二郎の『明治の人間』(鶴書房)を読んだ。先日、神保町の古本屋で手に入れた本だ。

明治27年生まれの小島にとって、国家くらい大事なものはなかったが、大正、昭和、戦後を生きた結果、つまり日露戦争後の、満州事変から日中戦争大東亜戦争を経て、最後は「国家は悪をなす」と思うようになったとある。

「私は仕合せな時代に育った。どっちを見ても、優れた政治家、学者、芸術家、芸人なら名人上手が大勢、、、お手本にしたくなるような人が、方々にいた。、、、植木屋、大工、小説家、ジャーナリスト、、」。講釈にも、落語にも、浪花節にも名人上手が雲のようにいたのだ。そして明治の人は、勤勉、質素、倹約、鑑賞眼、芸を重んじた、よく歩いた。これが私たちが今でもよく聞く「明治の人は偉かった」という言葉の中身なのだ。

この本は72歳の時の出版である。明治から大正、昭和にかけて活躍した有名人が数多く出てくる。皆、小島自身が接した人たちである。

児玉源太郎久保田万太郎西脇順三郎芥川龍之介菊池寛久米正雄永井荷風巌谷小波島崎藤村。善助。魯山人村松梢風。野口米次郎。川端康成神田伯龍。神田伯山。古屋信子。木村名人。圓朝横光利一森鴎外

恩人の一人が善助である。小島の実家は呉服屋であり、その通い番頭にかわいがってもらった。本、俳句、歌舞伎、講釈、落語、寄席、相撲、チャリネ(サーカス)、浪花節、そして寿司の立ち食いや屋台の天婦羅の食べ方もならったと感謝している。

さて、この本の中で、「天才の芽」と「自分を全部的に生かす形式を発見した喜び」という言葉が目に留まった。

井原西鶴:「天才の芽」を持った西鶴は、創造のエネルギーの氾濫で苦しんだ挙句、41歳で「好色一代男」を書き、一人の人間の心理、境遇、性格、運命を追究する楽しみに喉を鳴らした。「自分を全部的に生かす形式を発見した喜び」の中で、世之介の7歳から54歳までの性生活を息もつかずに書き立てた。「好色二大男」「諸国ばなし」「椀久」を経て、45歳の「好色五人女」でこの天才は浄化された。52で死去。

松尾芭蕉:29から39まで、自身の「天才の芽」のために宗匠になっても安んじることができなく、小生に甘んじることもできなかった。40という当時の初老、隠居の年齢まで居候で暮らした。そこから文学類似の弄び物に過ぎなかった俳句を一人の力で詩の高さまで持ち上げた。51歳で死去。

小説、俳句という「自分を全部的に生かす形式を発見した喜び」が、この二人を天才として完成させたのである。ここがどうもポイントのような気がしている。

小島は明治27年生まれだから、明治19年生まれの私の母方の祖父(確か59歳で亡くなった)より8つ若い。その小島は1994年で100歳で亡くなっている。そのデンでいうと祖父は1986年、つまり日本の最盛期のバブルの時期まで生きたことになる。人生100年の凄みを感じる。

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「名言との対話」8月29日。大河内正敏「いいんだよ 出し惜しみしていては いつまでたっても欧米には追いつけん!」大河内 正敏(1878年明治11年)12月6日 - 1952年(昭和27年)8月29日)は、物理学者であり実業家である。

大河内正敏という人物については、「名言との対話」で取り上げたこともあるし、名前もよく見かけてきた。今回、宮田親平『「科学者の楽園」をつくった男 大河内正敏理化学研究所』(河出文庫)を読んで、その全体像がみえた。

高峰譲吉が国民科学研究所設立の構想をぶち上げ、渋沢栄一が設立委員長として奔走し、ようやく理化学研究所が設立される。化学に加えて物理も入った研究所である。

初代所長は菊著大麓、第二代古市公威。危機にあった理研の第三代所長には、造兵学の43歳の大河内正敏が抜擢された。大河内の先祖は「知恵伊豆」と呼ばれた松平伊豆守である。毛並みがいい。頭がいい。美男子。教養は群を抜いている。グルメ。庭園や建築意も詳しい。絵を描く。陶磁器鑑賞家。なんでもござれのスーパーマンであった。

危機に直面して選ばれた第3代所長の大河内正敏の改革は際立っていた。ピラミッド構造を粉砕し、主任研究員制度を導入。組織をフラット化し「長」と名のつく職制を廃止。予算、人員など一切を主任研究員にまかせるという方式である。出勤簿はない。研究テーマは自由。義務はない。大学教授との兼任も認めた。学問の垣根を取り払う。女性の研究員を増員。組織改革のテーマは「自由と平等」だった。そこで得たエネルギーを技術移転による製品開発に向け、一大コンツェルンを築く。基礎研究と応用技術による起業が理研精神の両輪だった。

理研の三太郎と呼ばれた科学者は、長岡半太郎鈴木梅太郎、本多光太郎である。長岡半太郎は物理学の中心、仁科芳雄は現代物理学の父と呼ばれ、ノーベル賞朝永振一郎湯川秀樹を育て、福井謙一にも影響を与えた。鈴木梅太郎はビタミンAの発見と応用で理研に大きな収入をもたらした。寺田寅彦もいた。理研の三代議士の一人の田中角栄総理は膨張期の理研産業団の工場建設を請け負った。日本医師会の武見太郎も理研の研究員だった。リコーの創業者の市村清理研光学工業」を任され、後に独立してリコーとなった。

大河内の周辺は皆心から尊敬し、愉快に研究に没頭することができたという。「人を見る眼が特に秀でて、偽物は直ちに見破られ真面目な研究者をよく保護し育成した」と言われた。「あまり文献を読みあさると、独創力が鈍る」「基金がなくなるまで」「基礎科学の研究が主、発明は従」、大河内の言葉である。

所長生活は25年に及ぶ。大河内は、戦犯容疑で巣鴨に収監される。随筆を執筆し『味覚』という本を出版している。葬儀は「科研葬」であった。

「殿様」「大名風」と呼ばれたおおらかな大河内正敏は、就任時100人未満であった所員は5年目には400人と理研を日本を代表する研究機関につくり上げ、鮎川義介日産コンツェルンと並ぶ、63社・121工場もの企業群を擁する企業集団に育て上げた。

しかし最大の成果は、人材輩出の面で素晴らしい業績をあげたことであろう。文化勲章は10人以上。学士院賞は30人以上。ノーベル賞は2人という具合である。欧米に追いつこうと突っ走った大河内正敏は、発見や発明もどんどんオープンにし国家の発展を科学面から支えたのである。大河内は「科学者の自由な楽園」をつくったのだが、実は科学者の厳しい研究現場でもあり、素晴らしい業績をあげ続けた「理研」にしたのである。このことは大学や研究機関の運営の示唆を与えるものだ。

大河内はグルメであった。『窮理』第9号「随筆遺産発掘(九)中金の豚鍋ー大河内正敏」を楽しく読んだ。一高前の蕎麦屋玉子酒、本郷の屋台の巴里軒、追分の塩月、特に牛鍋屋の中金の豚鍋は絶品だと友人に話したら、「年を取ったからグルーマンがグールメーに変わっただけの話さ」、「衰ひや歯に喰ひ当てし海苔の砂」という芭蕉48歳の時の句をひいて、大食漢が衰えて食い分けられる食道楽になったのさと言われている。衰えの兆しは歯からくる。この友人は同年同月生れで帝大卒業も同じだった理研の盟友の寺田寅彦だった。

 

宮田親平『「科学者の楽園」をつくった男 大河内正敏理化学研究所』(河出文庫

『窮理』第9号「随筆遺産発掘(九)中金の豚鍋ー大河内正敏