世田谷文学館「六世 中村歌右衛門展」ーー美と悪とナルシズム

世田谷文学館「六世 中村歌右衛門展」。

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六代目 中村 歌右衛門(なかむら うたえもん、1917年大正6年)1月20日 - 2001年平成13年)3月31日)は、日本歌舞伎役者屋号成駒屋。戦後の歌舞伎界における女形の最高峰。

歌右衛門生涯の当たり役は非常に多く、娘形から姫、片外し、傾城、世話女房に至るまで、あらゆる女形の領域をこなした。1979年(昭和54年)文化勲章。1996年(平成8年)勲一等瑞宝章(芸能界では初の勲一等生前叙勲)。享年84。

展示によれば、「女形」は江戸幕府の始まりである1603年と同じ400年以上の歴史を

を持っている。代表作の「京鹿子娘道成寺」は、15歳から舞い納めの1988年まで1000回以上演じている。「花ごろも 舞いおおせけり 涙かな」。この作品は女形の王様である。生涯では1200回以上舞っている。

三島由紀夫は、存在の力である「美」と魅惑する力である「悪」と化合する力である「ナルシズム」と、歌右衛門を語っている。三島の原稿が展示されていたが、」修正や追記が多かった。吉井勇の原稿は殴り書きで読むのに苦労する。

 兄福助の34歳での突然の死によって、次男にお鉢がまわっきた。歌舞伎界では長男と次男との差別は極めて大きいが、歌右衛門と歌舞伎界は幸運だったのかも知れない。

 「役者は得ですね。年をとってきて、よくなるというんですから。ちょっとほかとは違う」

「芸の道は行きつく先がありません。コツコツと石を積み上げていくように、舞台以外は何もないものと思っています」

「勉強が深いか浅いかが決定的なんだ。、、掘り下げが浅いから、舞台へ出てくるものが薄い」

「競うということは芸の向上にはなによりのことであって、落ち着いてしまったら止まるんです」

 図録「六世 中村歌右衛門」で三島由紀夫は語っている。

「、、歌右衛門の、百花繚乱の熟成期に立ち会ってをり、これこそ、前代の人たちも後代の人たちも知らぬ幸福だ」と思はせるものがある。

現代で一つの宿命を引き受け、それを生き抜くことは、思ふだに至難の業で、それだけでも敬重に値する。歌右衛門女方の宿命を身に引き受けることによって、貴重な宝石のやるな存在となった。

 橋本治は、大学入学から10年間歌右衛門を見続けている。三島のいう幸福を味わった人だ。三島のいう「幸福」を次のように語る。

私は歌右衛門を見続けて、ただ「すごい、、」とだけ言い続けていた。「生きた錦絵」、「完璧な美」、「美神」、、。

「全身が”おもしろさ”で狂うようになった経験」

歌右衛門が演らなかった女は「西洋の女」だけだったと言ってもいいだろう。、、「日本の女」を、すべて一人で演じてしまったと言ってもいだろう。

歌右衛門の六十年―ひとつの昭和歌舞伎史 (岩波新書)

図録:世田谷文学館『六世 中村歌右衛門展』

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梅棹忠夫著作集』第14巻の図解化15枚まで。

ジムでスイミング:1000m。

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「名言との対話」3月22日。福田平八郎「私の絵は分かり易く言えば、写実を基本にした装飾画と言えると思います」

福田 平八郎(ふくだ へいはちろう、1892年2月28日 - 1974年3月22日)は、大分県出身の日本画家

大分中学校在学中、絵画への志を立て、京都市立絵画専門学校別科に入学し、翌年京都市立美術工芸学校に入学しなおした。同校卒業とともに、京都市立絵画専門学校に入学、卒業した。在学中に第10・11・12回文展に入選。「君は自然を客観的に見つめてゆく「ほうがよくはないか」とアドバイスを受ける。卒業の翌年、1919年に第1回帝展で入選。27歳になっていた。2回も入選。3回では「鯉」で特選、そして宮内省買い上げとなり、一躍大画家に押しあげられる。1924年、母校京都市立絵画専門学校の助教授となる。

帝展、新文展、戦後日展へと、官展を中心に活躍しつづけた。後進の育成にもあたったが、1937年、絵専の教授を辞め、制作に専念する。

1947年帝国芸術院会員となり、1961年には文化勲章を受章した。またこの年大分市名誉市民に推され、1973年には小野竹喬堂本印象らとともに京都市名誉市民として表彰された。1973年、死去。享年82。

作品は、最初厳しい写実により出発し、次第に画面は自由に簡略化され、その作風は従来の日本画にみられない独自なものとして高く評価された。代表作―「鯉」「漣」「筍」「新雪」「雨」など。

生涯「水」の動き、感覚を追究していた。「描くのに水ほど興味があり、また水ほど困難なもはない」。「水には金属的な光がある」。代表作の「漣」(さざなみ)は池面に映る水面の模様を描写した作品である「釣りに行って釣れなかったおかげで絵がかけました」という苦労話を昭和天皇に語った。肌にも感じない微風が美しい漣(さざなみ)をつくっているのをみつけた。近代日本が生んだ名作のひとつだ。銀地の屏風に群青の冴える作品。風と光を感じる作品だ。

大分市には福田平八郎画伯の生家がある。大分市には「福田平八郎賞図画展(通称「福田賞」)という名称の賞がある。

「わたしはものを見るとき、形や線よりも先に色を強く感じてしまう」というカラリスト福田平八郎は花鳥風月を好んで描いている。一見すると平板だが、美しい色で写すという独自の表現に到達した。写生に徹した装飾画の画家となった。

週刊アーティスト・ジャパン no.46 (福田平八郎)