9月末締め切りの原稿「人物記念館の旅」が完了。今日はヨガと温泉。

北里柴三郎記念館。

9月末締め切りの10人の共著の原稿を書き終えた。統一テーマは「旅」。私のテーマは「人物記念館の旅」にした。2005年に始め、2022年に1000館に達した旅のことを書いた。出版は2024年3月を予定。

以下、小見出し

はじめに。なぜ人物記念館か。数字で振り返る。節目の記念館。ココロの革命。7つの共通項「仰ぎ見る師匠の存在」「敵との切磋、友との琢磨」「持続する志」「怒涛の仕事量」「修養・鍛錬・研鑽」「飛翔する構想力」「日本への回帰」。偉い人とは「影響力」の大きな人。なぜ人物記念館の旅が続いたか。現地に行かなければわからないことがある。「偉人伝」の復活を。「人間学」へ。久恒啓一の人物記念館リスト。

以下、最後の「人間学へ」。

「近代、現代の偉人を顕彰する人物記念館が多いのだが、この旅は、日本と日本人の再発見の旅であり、「日本人の精神」「日本人のココロ」を訪ねる旅である。「聖人巡礼」をしている感覚だ。この旅の中で「日本には偉い人が多い」という誇りを持つとともに、「人は必ず死ぬ」という事実を知り、人生は有限であることが実感としてわかった。

亀倉雄策文化功労者に選ばれた時期に書いた著書『直言飛行』では、「中だるみ」の第一波は40代の後半にやってくるという専門の医者の説を紹介している。問題の第二波は50代半ば頃にくるという。この説に当てはめると、40代後半で私は大学への転身で中だるみの第一波を乗り切ったということになる。また50代半ばから新しいテーマである「人物記念館の旅」に熱中していったのも説明できそうだ。70代半ばの亀倉雄策のこの説には納得感がある。

渡部昇一は、文科系は蓄積であり、高齢者に適しているのは、修養、人間学がいいと言う。私の人物記念館の旅も、その線上にあると思う。私は2005年から「人物記念館の旅」を始めた。2010年には『遅咲き偉人伝』(PHP)を出版して形になった。強いていえばこの5年間が「中年の危機」を克服する月日だったのかもしれない。

ライフワークである「図解コミュニケーション」という武器で時代に立ち向かってきたが、自分にとってはわかりきったことだったのでややマンネリ感はあったのかも知れない。人物記念館の旅からは、日本近代の偉人たちの息吹とオーラを浴び、もう一つのライフワークを手にした感がある。「図解」から、「図解と人物」に脱皮しながら展開していったともいえる。今の私は「図解学」とともに「人間学」を手にしたようだ。これからもこの路線を歩いていきたい。」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

今週は毎日のように外出した。新宿。白金台。立川。中目黒。夜はだいたいズームでの多様な世代とのコミュニケーションをとっている。

木曜日は整体のオステでカラダを整えた。また本日の土曜日の朝はヨガ教室でこってり汗をかいた、そして夕刻からは近所の温泉に浸かった。リフレッシュも行ったので、ココロとアタマ、そしてカラダの調子はいい。

ーーーーーーー

「名言との対話」9月30日。津田三蔵「大進撃ニテ大勝利、魁首西郷隆盛桐野利秋ヲ獲斃シ大愉快之戦ニテ、残賊共斬首無算ナリ」

津田 三蔵(つだ さんぞう、安政元年12月29日1855年2月15日) - 1891年明治24年)9月30日)は、明治期の日本陸軍軍人警察官大津事件の犯人。享年36。

1891年、ロシア皇太子のニコライの来日時に、滋賀県大津において沿道の警備にあたっていた巡査から切りつけられるという事件が起こって、日本中は騒然とした。大津事件である。その犯人が津田三蔵だ。

津田三蔵は、幕末から明治にかけての激動期に生きた一人の庶民である。15歳で東京鎮台に入営。以降、名古屋、新潟、金沢で勤務。1877年(明治10年)の西南戦争では、鹿児島県と宮崎県を転戦し、勲七等を授与されている。退役後は滋賀県警に勤務。そして1891年に沿道警備に抜擢されて、大津事件を起こす。裁判では無期徒刑の判決を受け、北海道にて獄死。

政府首脳の松方正義総理、青木周造外務大臣、元老の伊東博文らは、皇室への反逆罪の大逆罪で死刑にすべきだとの強い圧力を加えた。日露戦争が始まる前の時期であり、外交的に重大な事件であった。明治天皇は京都に移動したニコライ皇太子を見舞い、帰国する神戸で見送るなどして、ロシアの感情をなだめている。

大審院院長の児島惟謙はこの案件を地裁でなく大審院で裁くこととした。児島院長は罪刑法定主義をかざし、皇室に対する大逆罪には該当せず謀殺未遂罪での無期懲役を16日後に言い渡し、司法権の独立を護った。このことは近代国家としての日本を知らしめるものとなった。

政府の方は、青木周蔵外務大臣西郷従道内務大臣、山田顕義司法大臣らはこぞって、ロシアに対する誠意を見せて、責任をとって辞職している。この大事件は後に吉村昭が『ニコライ遭難』(新潮社)を書いている。未曾有の国難にゆれる世相を活写した作品だ。この作品ではニコライ皇太子への官民挙げての歓待ぶり、そして犯人の津田三蔵の処分をめぐる政府と司法の軋轢、そして津田の不審な死について、他殺説、自殺強要説などがとびかったが、病死であるとの新事実もつきとめている。この大津事件は、ひとつ間違えば大国ロシアとの戦争につながりかねない大事件であった。

西南戦争終結時の津田の母宛ての書簡には「当月(九月)廿四日午前第四時ヨリ大進撃ニテ大勝利、魁首西郷隆盛桐野利秋ヲ獲斃シ大愉快之戦ニテ、残賊共斬首無算ナリ」とあり、また「御話ノ如キハ近日帰国拝眉ノ期ト楽居候」と書いてあった。西南戦争に従軍した一兵士の津田三蔵の様子がわかる書簡である。ごく普通の一兵士の心情だろう。

自らが起こした大津事件について津田は「一太刀献上したまで」という意味の供述をしているだけで、ニコライを襲った犯意を津田自身は語っていないが、極東進出をもくろみ、新興の日本とは緊張状態にあったロシアへの反目であったと理解しておこう。

総理、総理経験者の暗殺事件と犯人。1909年、伊藤博文安重根1921年原敬は中岡良一。1930年、浜口雄幸は佐郷屋留吉。1932年、5・15事件で犬養毅。1936年、2・26事件で斎藤実高橋是清。戦後は減って、2020年の安倍晋三暗殺のみ、犯人は山上徹也。野党の党首では、1960年の浅沼稲次郎暗殺は山口二矢。暗殺未遂もある。大隈重信岡田啓介。平沼騏一郎鈴木貫太郎岸信介三木武夫宮澤喜一細川護熙岸田文雄

安倍晋三暗殺の裁判の行方には注目したい。