私も棚主になっている神保町のシェア書店「猫の本棚」が、タイの人気番組で紹介された。

私も棚主になっている神保町のシェア書店「猫の本棚」が、タイの人気番組で紹介された。韓国からも視察団がきたというから、シェア書店は海外からも注目されているようだ。

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以下、「猫の本棚」のtwitter

  • 神保町「猫の本棚」がタイのテレビ局「PBS」のゴールデンタイムに放映中の人気番組「Life Explorer」でたっぷり紹介されました。テーマは「生きがい」。リンク↓の12分あたりからが「猫の本棚」パートです。棚主さんの棚もたくさん映っていますぞ!」
  • 「「Life Explorer」で聞き手をつとめて下さったのは、タイの超人気ライターRoundfingerさん。真摯なご質問に「猫の本棚」店主のM&Hもいつになくマジメ風なことを語っています笑笑。棚主さんの棚をたくさん撮って下さって嬉しい限り。」

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  • ヨガ1時間。
  • 「名言の暦」(2022年版)を編集中。抜けていた日々、生年月日を間違えていた日、などの処理。

「名言との対話」8月17日。岡田武松「天気晴朗ナルモ波高カルベシ」

岡田 武松(おかだ たけまつ、1874年明治7年)8月17日 - 1956年昭和31年)9月2日)は、日本気象学者。「気象学の父」。

千葉県我孫子市出身。一高時代に利根川の氾濫が多発したことから、防災や気象の分野に関心をもった。26歳で東京帝大理科大学物理学科を卒業し、中央気象台に入台。1904年に予報課長。1905年の日露戦争対馬海峡沖の日本海海戦の日に天気予報を出すという役目になる。

「天気晴朗ナルモ波高カルベシ」が岡田の予報だった。連合艦隊の秋山参謀は「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、之ヲ撃沈滅セントス」、そして「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」との文言を添えて、東郷司令長官名で大本営に打電した。ロシアの軍艦は重心が上方にあるので、日本に有利になるという意味も含めたのだ。結果は日本の圧勝となった。

1923年、中央気象台長(気象庁長官)となり、1941年までその職をつとめている。49歳あたりから67歳あたりまでだった。

気象学研究者としても多くの著作を残し、後進の育成にあたっている。中央気象台長の後任となった10歳年下の藤原咲平1884年生)とともに、気象学の総帥であった。1941年から1947年まで台長という職にあり、太平洋戦争下の気象事業を統括した藤原作平は作家の新田次郎の叔父である。

岡田武松は1949年に文化勲章、1951年に文化功労者。「台風」の命名フェーン現象に「風炎」と和訳したことでも知られている。

日露戦争、太平洋戦争で、気象学が力を発揮したことがわかる。その象徴が国運を賭けた日本海海戦の日の岡田武松予報課長の「本日天気晴朗ナルモ波高カルベシ」であった。この逸話は長く伝えられるだろう。

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「名言との対話」8月28日。西村英一「災害は忘れた頃に、ということだからと言って、起こらないと軽視するのはいけない」

西村 英一(にしむら えいいち、1897年8月28日 - 1987年9月15日)は、日本政治家

大分県姫島村出身。姫島村は現在大分県唯一の村。大分中学、七高を経て、東北帝大で電気工学を学ぶ。卒業後、鉄道省に入省。運輸省鉄道総局伝記局長で退官し、1949年衆議院選挙で民主自由党吉田茂総裁)で初当選。吉田学校の生徒となった。保守合同自民党に参加し、鉄道省時代に知り合った佐藤栄作が主宰する佐藤派に所属した。

池田内閣の厚生大臣。佐藤内閣の建設大臣。佐藤退陣後は田中角栄を支持し、田中派の会長となった。初代国土庁長官福田内閣の行政管理庁長官。大平内閣時代は自民党副総裁。1980年の大平の急死にあたり、総裁代行の西村は、総理臨時代理の伊東正義とともに選挙運動を遂行し、自民党が勝利した。ところが、西村自身はこの選挙でまさかの落選となった。当選していれば、断った伊東とともに総理候補だったろう。私は金にきれいだった伊東に白羽の矢がたったことはよく覚えている。頑固なまでに首班になることを拒否し、すがすがしい思いでこの人のことを思ったことがある。

西村も、質素な生活、そして清廉な人柄から親しまれ、「おじいちゃん」「じいさん」と呼ばれていたという。勲一等旭日桐花大綬章などの称号よりも、故郷・姫島村の名誉村民の尊称の方がふさわしい感じがする。

西村英一は1952年の国会(衆院建設委員会)で大蔵省の出す公共事業費の予算割に対して災害を軽視していると批判し、「災害は忘れた頃に、ということだからと言って、起こらないと軽視するのはいけない」と発言している。

地球温暖化の影響もあり、気候変動で災害が多く発生するようになった現今であり、初代国土庁長官である西村英一のこの言葉をとることにした。

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「名言との対話」7月1日。児島惟謙「津田の起こしたことは許されないが、外国や政治の圧力に屈して法を曲げることは国としてあるまじきことだ」

児島 惟謙 (こじま これかた / こじま いけん 、 天保 8年 2月1日 〈 1837年 3月7日 〉- 1908年 〈 明治 41年〉 7月1日 )は、 日本 の 裁判官 ・ 政治家。「護法の神様」。

愛媛県宇和島市出身。長崎で坂本龍馬五代友厚と親交。1967年脱藩し京都で勤王派として活動。明治維新後の1870年に司法省に入省。名古屋、中崎の所長を経て、1883年大阪控訴院長。この時代に関西大学創立に力を貸し準創業者扱いで学内に胸像が建っている。

1891年に大審院院長(最高裁判所長官)に就任。この年、ロシア皇太子ニコライが、巡査の津田三蔵の襲撃で負傷する大津事件が勃発。院長の児島はこの案件を地裁でなく大審院で裁くこととした。

政府首脳の松方正義総理、青木周造外務大臣、元老の伊東博文らは、皇室への反逆罪の大逆罪で死刑にすべきだとの強い圧力を加えた。その数年後に日露戦争が始まる時期であり、外交的にもこれは重大な事件であった。明治天皇は京都に移動したニコライ皇太子を見舞い、帰国する神戸で見送るなどして、ロシアの感情をなだめている。

児島院長は罪刑法定主義をかざし、皇室に対する大逆罪には該当せず謀殺未遂罪での三木懲役を16日後に言い渡し、司法権の独立を護った。このことは近代国家としての日本を知らしめるものとなった。

一方の政府はどうしたか。青木周造外務大臣西郷従道内務大臣、山田顕義司法大臣らはこぞって、責任をとって辞職している。ロシアに対する誠意を見せたのだろう。この大事件は後に吉村昭が『ニコライ遭難』(新潮社)を書いている。

翌年に花札賭博に興じていたとして、児島大審院長以下判事6名が告発され、検事総長による懲戒裁判にかかる。現行犯ではなかったことから訴追は免れたが、1894年に児島は辞職することとなった。行政側の意趣返しとの説もあるが、真相はわからない。もともと児島は花札賭博に熱心だったようだ。児島はその後、貴族院議員などを歴任した。

司法官として歩んだ児島惟謙は、大阪時代も自由党大阪事件での政府の介入を排除したことで評価を高めたが、この大津事件の処理によって、不動の名声を獲得したのである。

立法、行政、司法の「三権分立」という建付けの民主主義のなかで、司法の独立は、日本の近代、現代において、常に問題が発生している。その都度、さまざまの事件や教訓が積み重なっている。

児島惟謙の「津田の起こしたことは許されないが、外国や政治の圧力に屈して法を曲げることは国としてあるまじきことだ」という判断は、司法の独立を護ったという意味で出色の仕事であったというべきだろう。児島惟謙は、「護法の神様」となった。最近、思うことは、どの分野にも「神様」がいるということだ。憲政の神様・犬養毅、三味線引きの神様・豊沢団平、車両の神様・島安次郎、経営の神様・松下幸之助、落選の神様・片岡球子小説の神様志賀直哉、校正の神様・伊沢蘭奢地震の神様・今村明恒、、、、。「童話の神様」「競馬の神様」「育児の神様」「ジャズドラムの神様」「ビリヤードの神様」「販売の神様」、、、、。日本は八百万の神様のいる国なのだ。