「多摩学」事始め」を脱稿。


原稿「『多摩学』事始め」を脱稿。分量調整が必要か。11月中旬締め切り。

目次:「鳥瞰図絵師」「現代の鳥瞰図絵師」「多摩学の発見ーー多摩大鳥瞰図絵」「鬼太郎茶屋。武相荘。個人美術館(村内美術館・西山美術館)」「多摩の人物記念館訪問リスト」

以下、本日。

  • メルマガ「学びの軌跡」1398号を配信。
  • 「名言との対話」の11月の人選:決まらない。6日・14日・25日。
  • 図解塾の準備:著作集の読み込みとメモ。
  • 電話:藤田君「市長選」。松田君「近況」。横野さん「知研」。
  • 雑誌「世界」11月号の寺島実郎「脳力のレッスン」257「国家構想なき日本を超えて」。

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「名言との対話」10月30日。尾崎紅葉人の幸福の第一は家内の平和だ。家内の平和は何か。夫婦が互いに深く愛するというほかはない」

尾崎 紅葉(おざき こうよう、1868年1月10日慶応3年12月16日) - 1903年明治36年)10月30日)は、小説家

東京芝大門出身。現在の日比谷高校で幸田露伴、狩野享吉と同級だが、中退。漢学、漢詩文、英語を学び、大学予備門に入る。1885年に山田美妙らと硯友社をつくり、『我楽多文庫』を発刊する。1888年帝国大学法科大学政治科に入学、国文科に転科する。

1889年に『二人比丘尼色懺悔』を刊行。地の文は文語体、会話は口語体という雅俗折衷の文体で流行作家となる。読売新聞に入社。1990年、帝大を退学。読売新聞の連載で人気を得る。幸田露伴と「紅露時代」をつくる。

1895年『多情多恨』、1895年から『金色夜叉』の連載を始める。貫一・お宮の金と恋の物語は大人気となり、続編も書いたが1903年胃がんのため逝去。享年35。

  • 人間よりは金のほうがはるかに頼りになりますよ。頼りにならんのは人の心です。
  • これから力を合わせて勉強して、まずいものを食って長命して、ただの一冊でも良いものを書け。おれも七度生まれかわって文章のために尽くすつもりだから。
  • 世間に名を成し人々に敬るには、身持ちと心持とが大事。

門下生が多い。泉鏡花田山花袋小栗風葉徳田秋声らそうそうたる文人がいる。泉鏡花は友人の下宿において尾崎紅葉『二人比丘尼 色懺悔』を読んで衝撃を受け、文学に志すようになる。上京し紅葉門下に入り、尾崎家にあって、原稿の整理や雑用にあたり、紅葉の信頼をかち得ている。

2005年に私は那須塩原温泉郷にて「妙雲寺」を訪問した。平家の落人であった重盛の妹の妙雲尼の寺だ。この地を訪れた文学者の碑が数多く建っていた。尾崎紅葉「本堂や昼寝無用の帳札す」、会津八一「なづみきて野辺よりやまにいるみちのみみにさやけき水のおとかな」、漱石「湯つぼから首丈出せば野菊哉」、茂吉「とうとうとらっぱをふけば塩原の深染の山に馬車入りにけり」、昭和天皇「夏たけて堀のはちすの花みつつ ほとけのをしへおもふ朝かな」、芭蕉「初しぐれ 猿もふみのをほしけなり」

2008年に鎌倉の鏑木清方記念美術館を訪問した。画室と呼ばれるアトリエは、12畳ほどの広さで、絵を描くための道具類が机の上に並んでいる。正面の扁額は「所作著御」といみごとな字である。これは交流のあった尾崎紅葉の書である。

2008年の「知研フォーラム」の高階時子「楽しい事典の話6」が面白かった。夏目漱石宮武外骨南方熊楠幸田露伴正岡子規斎藤緑雨、そして尾崎紅葉は、同じ年の生まれだった。

正宗白鳥『文壇五十年』(中公文庫)を読んだことがある。記者時代に気まぐれに小説を書きだして、いつの間にか文学を一生の事業にすることになった。それが50年続いたから文壇史を書こうという。尾崎紅葉坪内逍遥、戦争劇、岡倉天心、翻訳文学、抱月藤村花袋、鴎外と漱石、樗牛らの日本主義、自由劇場幸徳秋水キリスト教と文学、左翼評論、マルキシズム、プロ文学、言論の制約、戦争と文学、敗戦後、、、、などが並んでいる。文壇史のトップバッターは尾崎紅葉だった。

代表作『金色夜叉』の貫一の「来年の今月今夜、再来年の今月今夜、10年後の今月今夜のこの月を、僕の涙で曇らせて見せる」は、人口に膾炙した言葉で、よく知られている。

ここでは、夫婦のあり方を述べた「人の幸福の第一は家内の平和だ。家内の平和は何か。夫婦が互いに深く愛するというほかはない」を採ることにした。「家庭なるものの快楽が十とすれば、寡なくとも其の四は膳の上になければならぬ」「牛肉のロースで飯を食うのと海苔で茶漬けをかきこむのとが一番おいしい」という「食」に関する言葉もある。紅葉の家庭は平和で幸福だったのだろう。