塩谷賛『幸田露伴 下の二』から

本厚木に所用があって、妻と出かけた。帰りに駅で古本店が並ぶ企画をまだやっていた。塩屋賛『幸田露伴 下の二』(中公文庫)を購入。この4巻の書は、読売文学賞を受賞している。

読んでみると手元にある坪内祐三『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲がり』の露伴についての底本のようだ。「詳細きわまる塩谷賛『幸田露伴

』との紹介があった。坪内逍遥露伴を抜群の記憶力と博識を回想して「ルネサンス的天才」と称していた。

最後で、かつ最も優れた弟子であった塩谷賛の『幸田露伴』の中で露伴のことを何と紹介しているか。「国宝的存在」。「碩学、人傑」。「座談の名人」。「文豪」。「ミノスのラビリントス」(鴎外の「百門のテーベス」)。、、、、

露伴は『澁沢栄一』という伝記を書いている。「事業から事業への必然的な関係もなく、全体を通じて一貫したものがない」と語っていたそうだ。露伴は頼まれて「時代の寵児」としての側面だけを書いたとのことである。パラグラフごとに一行をあけ、段分けがない。このためスピード感があった。

塩谷賛の書は、「太公望」から始まる。その冒頭に昭和10年に「改造」新年号の「偉人論」を載ったとある、自分のためばかり走り回る人を小人、その働きが社会のためになる善良な人を大人とする。偉人は善、不善を問わないとする。「えらい人になれ」というより、「人になれ」というのが良いとしている。露伴は偉人について、大人・仁人・哲人・聖人等11の称すと比較しているというから、いずれ読んでみたい。

幸田露伴は明治・大正・昭和の三代に亘る巨匠である。『五重塔』などの小説も素晴らしいが、『努力論』には触れるたびに感銘を受ける。厚みのある人生論で、努力論いうより日本を代表する幸福論だ。運命。人力。自己革新。努力。修学。資質。四季。疾病。気。こういうキーワードで事細かく生き方を論じた名著であり、首肯するところが多い。

 最も読むべきは「幸福三説」である。

惜福。分福。植福、これを三福という。惜福とは、福を使い尽くし取り尽くしてしまわぬをいう。個人では家康の工夫。団体では水産業、山林、軍事。分福とは、自己と同様の幸福を分かち与えることをいう。人の上となり衆を率いる人が分福の工夫をしなければ、大なる福を招くことはできない。分福は秀吉が優れていた。清盛。ナポレオン。尊氏。福は惜しまざるべからず、福は分かたざるべからず。植福とは、人世の慶福を増進長育する行為である。自己の福を植え、同時に社会の福を植えることだ。「福を惜しむ人はけだし福を保つを得ん、能く福を分かつ人はけだし福を致すを得ん、福を植うる人に至っては即ち福を造るのである。植福なる哉、植福なる哉」 

露伴の娘の幸田文の文章は、新しい情報を伝える「エッセイ」ではなく、日常の見聞から人間の本質を描く「随筆」というにふさわしい。読むと父・露伴のことがどうしても目がとまる。「父にうそをつくと観破されて恥しい目にあう」「黙ってひとりでそこいら中に気をつけて見ろ」「なぜもっと父の話を沢山聴いておかなかったか悔やまれた」「父の書斎、、、そこは家人といへども猥りに入ることのできない、きびしい空気がつつんでゐた」「お父さんは偉い人だと感服して聴いた」「「お前は赤貧洗うがごときうちに嫁にやるつもりだ」、、「、、薪割い・米とぎ、何でもおれが教えてやる」。「ある冬、伊豆に遊んでいた父から手紙をくれた。「湯のけむり、梅の花、橙の黄、御来遊如何」という誘い、、」。露伴と文との関係と交流が過不足なく冷静の描かれている。「終焉」の終わりは、「「じゃあおれはもう死んじゃうよ」と何の表情もない。穏かな目であった。私にも特別な感動も涙も無かった。別れだと知った。「はい」と一言。別れすらが終わったのであった」である。

露伴については、折に触れて、学んでいきたい。

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「名言との対話(平成命日編)」4月18日。来栖継「重訳が必ずしも直接訳に劣らない」

栗栖 継(くりす けい、男性、1910年7月18日 - 2009年4月18日)は、翻訳家、チェコ文学者、共産主義者エスペランティスト日本エスペラント学会顧問、世界エスペラント協会名誉会員、日中友好文通の会会長。享年98。

父が自殺したため母子家庭で育つ。中学時代にエスペラント語を知り、雑誌「戦旗」に掲載された「プロレタリアエスペラント語」という論文を読み、エスペラントにより革命運動に参加できると考え、エスペラントを学習する。

戦前は治安維持法により特別高等警察によって数回逮捕・投獄された。出獄した栗栖は小林多喜二蟹工船』のエスペラント語訳に取り組み、作家の貴司山治の助けで、大量にあった伏せ字を全部復元した翻訳を完成させた。その時点では出版できなかったが、スロバキアのジャーナリストが、栗栖のエスペラント語訳からスロバキア語に翻訳し、1951年に発行された。戦前・戦後を通じて日本のプロレタリア文学などのエスペラント翻訳などを多数行った。1949年、エスペラント運動に関する功績により「小坂賞」(日本エスペラント運動に対する小坂狷二の功績を記念した賞)を受賞した

少年期からチェコ文学に興味があり、「本物のチェコ文学者」となろうと、40歳を過ぎてから、独学でチェコ語を学習する。1995年7月、ルイジ・ミナヤ賞(世界エスペラント協会主催文芸コンクール、エッセイ部門第1位)受賞。2007年には、横浜みなとみらい21で開催された第92回世界エスペラント大会では、開会式でエスペラントであいさつを行った。

世界語・エスペラント語は、宮澤賢治も使っていた。また2011年に開催された「ウメサオタダオ展」でもエスペランチスト梅棹忠夫エスペラント語のサインの入った本が展示されていた。訪問したいくつかの人物記念館でもエスペランチストは数人いた。世界語への関心が高い時代があったのだ。

小林多喜二の代表作『蟹工船』のスロバキア語訳の陰には、来栖継という日本人によるエスペラント訳があったことが後にわかった。「スロバキア語とよく似たチェコ語訳の『蟹工船』は、伏せ字だらけの本が底本です。重訳が必ずしも直接訳に劣らない一つの例証です」と91歳の来栖継は語っている。原作を超えるという評価のある翻訳では、森鴎外の『即興詩人』が有名だが、日本語からエスペラント語への翻訳、そのエスペラント語訳からスロバキア語への再翻訳という「重訳」が成ったわけだ。原本の良さがだんだん薄れるだろうと思うのだが、語学の才能に加えて、志の高い翻訳者を得れば、直接翻訳を上回る出来になることもある。

小林多喜二から来栖継、そしてスロバキアのジャーナリストというように松明が引き継がれたのである。来栖継の第一次翻訳が優れていて、スロバキアのジャーナリストの転訳もさらにすばらしかった。軌跡の物語がここにある。