「魅惑のモダニスト--蕗谷紅児展」「漱石と文人たちの書画展」

「魅惑のモダニスト--蕗谷紅児展」(そごう美術館)
「子どもたちに、未熟な果物を与えてはならないように、未熟な、いやしい絵を与えてはならない」

蕗谷紅児(1898-1979年)は新潟県新発田町出身。14歳で上京し画家を目指すが。トラブルがあり19歳の時に樺太に渡り、旅絵師となる。21歳再び上京し「少女画報」の口絵でデビュー。22歳で竹久夢二と知り合いその紹介で花形になる。生涯「夢二先生」と慕っていた。1925年、本格的に画家として再出発するために渡仏。パリで個展を開き、展覧会で入選するなど活躍。1929年帰国。31歳、魯迅が上海で蕗谷紅児画選を発刊する。69歳、自画伝「花嫁人形」。70歳、三島由紀夫「岬にての物語」。77歳、伊豆に温泉付きアトリエ。
この挿絵画家は「金襴緞子の 帯しめながら 花嫁御寮は なぜ泣くのだろ、、、」の「花嫁人形」の歌で有名だ。
「令女界」という少女雑誌を舞台に活躍し「現今の文豪楽界美術界を支配する名士の一人」となる。
関東大震災の後、次々に雑誌の震災特集を手がけている。「令女界」の関東大震災記念号では自身の「転げある記」という文章も掲載している。震災画集は4集手がけた。被災した人々の様子を繊細なペン画で仕上げている。1集では「生き残れる者の嘆き」「絶望」「落ち行く人々の群」「落陽」。2州では「戒厳令」「焼跡の日」「たずね人」「家なき人々」。カラーの4集では、「建設を描く」「建設の力」「復興の女神」などを描いていて、発災直後から、復興へ向けての様子がよくわかる。
挿絵画家として、同年生まれの古屋信子、加藤武雄、野口雨情、西條八十などの本を手がけている。
紅児が12歳の時、美しい母は27歳の若さで病死してしまう。彼の少女絵は母親像を抽象し、純化し、そして展開していった過程でもあった。

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漱石文人たちの書画展」(神奈川近代文学館
神奈川近代文学館はの館長は以前は「清貧の思想」の中野孝次さんがつとめていた。現在は紀田順一郎さんが館長である。いつもいい企画を展開しているので、楽しみにしている。
今回は漱石などを扱っているので出かけてみた。そういえば夏目漱石は東京に縁があるにもかかわらず、記念館はなういのは不思議だ。熊本には旧居があり、また東京で住んだ家は愛知県犬山の明治村にあり、そこ訪れたことはあるが、この文豪の記念館は東京にも欲しいところだ。

漱石は美術にも関心が深かった。30代後半からは水彩画に凝っている。絵には漱石山人、漱石子、愚陀仏などの名前がみえる。
漱石(1867-1916年)と挿絵画家・橋口五葉(1880-121年)は「吾輩は猫である」で最初のコンビを組み、その後13点15冊の本を出していく。

  • 虚子「一つ根にははなれうく葉や春の水」
  • 三重吉「借りて履く女の下駄や宵の春」
  • 芥川「茶畑に入り日しもる在所かな」
  • 漱石の書。「夜静 庭寒」
  • 志賀直哉。「徳不弧」
  • 里見頓。「大道無門」
  • 武者小路実篤。「美に向かって 矢を射る男あり 百千万 遂に当らずと 言ふことなし」
  • 坂口安吾「堕ちることで真の自分を発見せよ」
  • 大岡昇平「レイテ戦記」。
  • 三島由紀夫の「豊饒の海」の「春の雪」。開高健の「オーパ」、、、。
  • 石原慎太郎の字は案外、弱弱しい字だった。