小津安二郎「東京物語」「お早よう」「秋刀魚の味」

2023年は小津安二郎監督の生誕120年にあたる。BSで連続して小津作品を放映しており、ここ3日間みている。戦後の暮らしぶりをわかるシーンが多く懐かしい。なんどか見ているものもあるが、改めて見るとやはり小津作品は実にいい。見ながら涙ぐんでしまった。

俳優たちはその後に大成した名優が多い。最近、NHK「声でつづる昭和人物史」で2週連続で杉村春子の巻を聴いたので演技を注目した。また老け役の笠智衆の演技を楽しんだ。

  • 東京物語」:1953年。上京した年老いた両親とその家族たちの姿を通して、家族の絆、親と子、老いと死、人間の一生、それらを冷徹な視線で描いた作品尾道。東京下町。熱海。笠智衆は元市役所職員という役。それぞれの暮らしぶりを鋭く観察して博士号のある長男を「あれは町医者だ」など短い言葉で説明していた。主人公の仲間たちの本当の姿と悲哀も描かれている。東山千栄子原節子杉村春子山村聡香川京子。東野栄治郎。大坂志郎

東京物語 : 作品情報 - 映画.com

  • 秋刀魚の味」:1962年。妻に先立たれた初老の父親と婚期を迎えた娘との関わりが、娘を嫁がせた父親の「老い」と「孤独」というテーマとともに描かれている。結婚のちょっとしたタイミングのずれ、立派になった旧制中学の同級生たちのいたずらグセ、ならった先生の貧しい生活と酒乞食風の飲み方、、、。笠智衆大手企業の重役の役柄で元海軍の艦長。岩下志麻佐田啓二岡田茉莉子東野英治郎岸田今日子杉村春子

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楽観。磨き砂。センテナリアン。ナンバー2。

少年期。命がけ。独歩。玄孫、来孫。

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heinrich schliemann に対する画像結果

「名言との対話」12月26日。シュリーマン「目的の大きさに比例して努力・精進しなければならないのは、人生の鉄則だ」

シュリーマンドイツ語Johann Ludwig Heinrich Julius Schliemann1822年1月6日 - 1890年12月26日)は、ドイツ考古学者、実業家

シュリーマンは幼少期に聞かされたギリシア神話に登場する伝説の都市トロイアが実在すると考え、実際にそれを発掘によって実在していたものと証明した人物。

シュリーマンは、人生の前半を志の実現のための手段として金を稼ぎ、それがなるときっぱりと実業を清算し、49歳からの人生の後半をトロヤの発掘にかけていく。一人の少年が抱いた志が生涯をかけて形になっていき、歴史を塗り替える。奇跡の人である。

シュリーマンは12歳から68歳で没するまで、50年以上に亘って日記をつけ、ノートを残している。「私はつねに5時に起床し、5時半に朝食、6時に仕事をはじめて、10時まで休まず」「私の習慣としてつねに早朝3時45分に起床し、、、次に水浴した」「床に入る前に日記をつける」

幼少期の志を持ち続け、そのための準備として苦心惨憺しながら資金を蓄える。50歳を前にして事業をすべて精算し、志の実現のために立ち上がる。そして伝説を実在の物語として証拠立てる遺跡を発掘することに成功する。小さな志ではなく大いなる志を身に宿したシュリーマンは、50年以上にわたる日記の習慣に代表されるようい大なる努力と精進の人であった。小さな志の人は小さな努力、大きな志の人は大きな精進ということか。冒頭の言葉によって後世の私たちは頭をガツンとなぐられる。

シュリーマンシュリーマン旅行記 清国・日本』(講談社学術文庫)を読んだ。1865年6月1日から7月4日までの約一ヶ月間、トロイの発掘で著名なシュリーマン(1822−1890)は日本に滞在した。明治維新の3年前である。シュリーマンは大商人となったが、41歳ですべての商業活動を停止し、少年時代からの夢であったトロイの発掘の準備にかかる。このためまず43歳で世界漫遊の旅に出る。この旅行記がこの処女作「シナと日本」である。
44歳、パリで考古学を学ぶ。46歳、博士号を取得、ギリシャ・トルコ旅行。47歳、アテナイで二度目の結婚、「シナと日本」をパリで刊行。そして49歳でトロイアを発掘。54歳、ミケナイ発掘。59歳、シュリーマンの館完成、トロイアの発掘品をドイツに寄贈。62歳、ティリマチス発掘。63歳、エジプト旅行。67歳、トロイアで第1回国際会議。68歳、ナポリで急死。

シュリーマンは館の書斎に多くの格言を掲げていた。ソクラテスも同様であったそうだ。自分に言い聞かせていた言葉だろうか。「汝自身を知れ」「精神の浄化」「何事も中庸が肝心である」「教養がないということは深刻な問題である」「勉学は非常に重要である」「何事も適切な時に行うべきである」「休養は次の仕事に大切。しかし寝すぎないように」「よい子はよい家庭で育つ」。

健康第一であったシュリーマンは海水浴を唯一の健康法と信じ、夏は早朝4時、秋と冬も5時の水浴を欠かさなかった。そのために耳疾を悪化させ命を落としている。

この尊敬すべき人物が八王子を旅している。6月18日から20日である。原町田と八王子はいずれも当時の人口は2万。八王子は絹の生産地で手工芸の町として有名であった。前方には常に富士山が見えていた。休憩した豊顕寺では境内の秩序と清潔さに心を打たれている。中国のごてごてと飾り立てた不潔で退廃的な寺とは違った。そして親切で清潔な僧侶にも感心している。シナの坊主の無礼、尊大、下劣とは違った。

シュリーマンは「世界の他の地域と好対照をなしていることは何一つ書きもらすまいと思っている私」と自分を心構えを述べている。日本では庶民も、日本男児は心づけ(賄賂)につられて義務をないがしろにしないことに感心している。また役人は最大の侮辱は現金を贈られることであり、受け取るくらいなら切腹を選ぶと驚いている。
「日本人はみんな園芸愛好家である」「日本人が世界でいちばん清潔な国民であることは異論の余地がない」「平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にもましてよく耕された土地が見られる」「工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達している。、、教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。」。シュリーマンの奇跡的な人生には興味が湧く。

『古代への情熱 シュリーマン自伝』(岩波文庫)を読んだ。トロヤ戦争の物語を絵本で読んだ少年シュリーマンは、美しい古都が地下に埋もれていると信じ発掘を志す。そのための語学などの猛烈な勉学と商人としての経済的勝利を携えて、遂にくわとすきによって発掘を開始する。そして伝説と信じられていたトロヤ文明の発掘に成功する。そしてミケネ文明も発掘する。シュリーマンはこの二つの文明の発掘者として歴史に名前を刻んだ。

シュリーマンは14歳から小僧として働き始める。いくつかの職場を変えて22歳でアムステルダムンのシュレーダー商会に入り、その後は商人として大活躍し、また幸運にも恵まれて、大成功を収める。この間、英語、フランス語、オランダ語スペイン語、イタリ語、ポルトガル語、ロシア語、スエーデン語、ポーランド語、現代ギリシャ語、古代ギリシャ語、ラテン語アラビア語ヘブライ語を習得する。
42歳。生涯の大目的を実現するための手段であった金銭を十分に確保したので、すべての実業を清算し、少年時代の夢であったトロヤの遺跡の発掘という大プロジェクトに入って行く。その大事業の前に、世界を周遊し、インド、中国、北アメリカを旅する。このとき、シュリーマンは日本にも寄っている。幕末の横浜に着き「絹の道」をたどり八王子まで足をのばしている。また江戸を見ている。このあと最初の著書「シナと日本」を書いた。
49歳からいよいよトロヤの発掘にかかり、「プリアモスの財宝」を発見する。「この宝庫はその一つをもってしても大博物館をむたすにたり、世界最大の驚異となり、またきたるべきいく世紀にわたって全世界の数千の異国の客をギリシャに引きよせるでありましょう」とギリシャ国王に電報を打った。54歳、ミケネ発掘。

シュリーマンは異常な努力によって15カ国語を話し、書くことができた。彼は切迫した境遇の中であらゆる言語の習得を容易にする方法を発見する。「非常に多く音読すること、決して翻訳しないこと、毎日1時間をあてること、常に興味ある対象について作文を書くこと、これを教師の指導によって訂正すること、前日直されたものを暗記して、次の時間に暗唱することである」また、難解な古代ギリシャ語については、学校でとられている方法はまったく誤っていると語っている。「ギリシャ語文法の基礎的知識はただ実地によってのみ、すなわち古典散文を注意して読むこと、そのうちから範例を暗記することによってのみ、わがものとすることができるのである」

また、シュリーマンは12歳から68歳で没するまで、50年以上に亘って日記をつけ、ノートを残している。「私はつねに5時に起床し、5時半に朝食、6時に仕事をはじめて、10時まで休まず。」「私の習慣としてつねに早朝3時45分に起床し、、、次に水浴した。」「床に入る前に日記をつける」

大事業の成功はシュリーマン夫人ソフィアの手助けも重要だった。少年の頃、トロヤの発掘という野望を抱いたシュリーマンは、ミナという少女と恋をする。ミナだけは彼のことをよく理解していたのだ。ミナが14歳のときに偶然再会するが、満足に話もできなかった。経済的な基礎を築いた24歳のとき、友人を通じてミナに結婚の申し込みをするが、彼女は数日前に他の人と結婚していた。

晩年は莫大な財産、鋼鉄の体で、個人的な交際を楽しみながら、研究に専心しながら日々を過ごした。しかし晩年の10年間は反対者との戦いでもあった。この本の中では、シュリーマンは、「不屈の人。自成の人。セルフメイドマン。熱情家。実際的な人間」などと描かれている。

シュリーマンは、人生の前半を志の実現のための手段として金を稼ぎ、それがなるときっぱりと実業を清算し、人生の後半をトロヤの発掘にかけていく。たった一人の少年が抱いた志が生涯をかけて形になっていき、歴史を塗り替える。奇跡の人の物語だ。

シュリーマンの影響は大きい、日本では民族学者の鳥居龍蔵シュリーマン人生についての講演を聞き発奮した。またスマイルスの「自助論」(中村正直「西国立志論」)などを好んで読んでいる。偉人の伝記の威力は大きいことがわかる。

シュリーマンは「目的の大きさに比例して努力・精進しなければならないのは、人生の鉄則だ」と語っている。シュリーマンの生涯を展望すると、この言葉に納得せざるを得ない。目的の大小と努力の大小は比例する。これは変わりうる法則などという甘い原則ではない。絶対の真理であるという意味での「鉄則」だとシュリーマンは喝破する。そのとおりだろう。

 

シュリーマンシュリーマン旅行記 清国・日本』(講談社学術文庫

『古代への情熱 シュリーマン自伝』(岩波文庫