昨日、長岡京市の中山修一記念館を訪問。
中山 修一(なかやま しゅういち、1915年(大正4年)7月19日 - 1997年(平成9年)4月30日)は、日本の考古学者、歴史地理学者。京都府出身。
「幻の都」「未完の都」とされた長岡京は、平城京の奈良時代と平安京の平安時代に挟まれた、わずか10年の都である。「続日本紀」などで存在したことは明らかだが、どこにあったかはながくわからなかった。それをは発見し、発掘したのが中山修一だ。
生涯にわたって、小学校の教諭から出発し、中学校、高校、短大、大学とすべての学校で教鞭をとったという珍しい経歴だ。長岡京の発掘のために、定時制高校の教諭となり、昼間の時間を自由に使うなど、エピソードが多い。記念館で説明してくれた年配の男性も愛情に満ちた笑顔と尊敬の語り口で共感しながら聴くことができた。
中山修一はこの地で生まれ、この地で発掘し、そしてこの家の書斎で研究し、本を書いた。7000冊の蔵書のある書庫も見せてもらった。長岡京市の命名も中山の提唱である。外には「長岡京発掘の父」との旗も立っている。
戒名は「無学院精空修徳居士」。仏教でいう無学とは、すでに学をきわめ、これ以上学ぶものがない聖者のことういう。有学の人という意味なのだ。
国立歴史民俗博物の佐原真館長は、中山が亡くなったときに「ひとりの人間の情熱と行動とかがこれほど大きな成果を生み出すことがある、という事実は人に勇気を与えます。日本の文化財保護の歴史中で中山修一さんの名は不滅です」とメッセージをよせた。トロイの遺跡を発掘したシュリーマンにも匹敵する人物だ。中山は「日本のシュリーマン」の異名もある。
購入した古鉄勝美『中山修一ものがたり』(文京堂書店)を読み終わった。
中山修一は先生に恵まれた人であるという印象を持った。小学校の小山恭二教頭は4年生から6年生までの担任で歴史の先生。中学校の担任が歴史の先生。京都大学では東洋史の第一人者の宮崎市貞と考古学の権威の梅原末治先生に学んでいる。
695年の太政官府「左京三条一坊十町を蓮池にせよ」が頭にあり、帰宅途中の湿地をそれとみて、復元図をつくることで、幻の長岡京の姿が浮かんでくる。戦後まもなくであり、自治体にも予算が少なく、発掘費用も土地を売った金、妻の貯金なども投入している。また直後の開発の波が襲う寸前だったことも幸運だった。少し遅れていれば、発見が遅れたし、そのまま幻の都のままであった可能性もある。
「授業夜なら昼は発掘現場に行ける」として定時制高校の教諭に志望を出して実現していることも人間として本物を感じさせる。目前の管理職などは迷惑であった。「地位はどうでもよく、発掘現場に立ちたい」、そ心意気が周囲を巻き込んでいく。そして発掘は、宮域から宮城全体に広がっていく。
発掘調査で地主の承諾を得ることは困難があるが、中山修一は地元の小学校の先生として慕われており、教え子も多かったことから、「中山先生なら仕方がない」と思わせたのである。
「土の中から千二百年前の遺跡や遺物が出てくる。この興奮、感激は何物にも代えがたいですよ。宮殿内の建物の礎石、牛車の轍とそれを押す人の足跡、当時の生活の香りを垣間見ることができる木簡の数々、いつの場合もジーンときました」
39歳、会昌門跡を発見。45歳、小安殿、大極殿を発掘。50歳、京都府文化財功労者。55歳、文化庁長官表彰。57歳、京都市教育功労者。60歳、長岡京市文化財保護審議会会長。66歳、京都府教育功労者、吉川英治文化賞。68歳、京都新聞文化賞。72歳、勲五等。75歳、長岡京市大1回文化功労賞。80歳、京都府文化賞特別功労賞。
小学校の先生から始まって、地元の長岡京の発掘をライフワークとして実現し、その過程で中学、高校、大学の教員になり、あらゆる資源を総動員して歩んでいく。その功績で50歳以降は、数々の表彰を受けながら、ライフワークを深めていった壮大なる生涯だと、感銘を受けた。こういう人を偉い人というのだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーー
「名言との対話」4月4日。市村清「人の行く裏に道あり花の山」
市村 清(いちむら きよし、1900年4月4日 - 1968年12月16日)は、日本の実業家。リコーを中心とする「リコー三愛グループ」の創始者。
佐賀県生まれ。1929年、縁あって理化学研究所(理研)が開発した陽画感光紙の九州総代理店の権利を譲り受け、朝鮮・満州の総代理店の権利も獲得する。1933年、理研所長大河内正敏より理化学興業(株)感光紙部長に招聘される。1936年理研感光紙(株)専務取締役に就任。同社は2年後に「理研光学工業」に改称され、これが後のリコーとなる。1942年には理研産業団より独立する。
戦後。「人を愛し、国を愛し、勤めを愛す」の三愛主義をモットーに三愛商事(現・三愛)を設立。1952年には三愛石油を設立、外資の攻勢をはねのけて、羽田空港の給油権獲得に成功する。本拠の理研光学においても、1950年に二眼レフカメラ「リコーフレックスIII」を発表、従来のカメラの1/4ほどの価格低下を実現し、大衆カメラブームを巻き起こした。
この他、西銀座デパート、日本リース(リース会社の先駆け)など各社を次々と設立、1962年には経営不振に陥った名古屋の「高野精密工業」の社長となり再建に成功する(現在のリコーエレメックス)。
市村清は「経営の神様」としてマスコミの寵児となり、五島昇、盛田昭夫ら若手経営者や大宅壮一、邱永漢、今東光、升田幸三らが門下生となった。有名な「市村学校」である。
2009年に仙台で富田秀夫さんから『市村清講演集』という新書(三愛新書)をもらった。没後40年を記念して三愛会で出した本で、2008年の12月16日の刊行となっている。非売品である。
市村清は、リコーの創業者で、松下幸之助や本田宗一郎と同世代の伝説上の経営者である。三愛石油、明治記念館、ハミルトンリコー時計なども経営したり、大河内正敏博士が率いる理化学研究所でも仕事をしたりしている。富田さんからは時々、「リコー時計」という会社の名前を聞いているが、その会社のことがよくわかった。富田さんは市村清に一度会ったことがあるそうだ。
最初のページに市村学校の紹介があり、「野田一夫君などもおりまして」と野田先生の名前もみえる。1962年の講演の中で「欧米式の経営学などは習ってきて参考にはなるかもしれないがもっと実際的に日本独特に研究していったらどうか」ということを言っていた。当時としてはやはり自分の頭で考える経営者だったのだろう。
この本の中に野田一夫先生の名前が二度でてくる。市村清は1900年生まれだから野田先生より27歳上だが、野田先生は市村学校の生徒だったとある。この講演をしていたころは、市村が60歳のころで、野田先生は30代半ばという計算になる。この学校には、五島昇、盛田昭夫ら若手経営者や大宅壮一、邱永漢、今東光、升田幸三等が入っていた。
市村が理研コンツエルンの中でただ一社だけ譲り受けた理研光学という会社が発展して、リコーという名前になった。これで会社の名前の由来がわかった。ビジネスマンだったころ、リコーの営業マンに日参されて、いい営業マンだなあと感心したことを思い出した。あれは市村イズムだったのだ。宮城リコーの社長をながく務めた富田さんにも、そういう雰囲気は残っている。
いかにも創業者らしい言葉が並んでいる。経営の基本は「人」であると強く意識しているとの印象を持った。
この講演集の中から言葉を拾う。
・欧米式の経営学などは習ってきて参考にはなるかもしれないが、もっと実際的に日本独特に研究していったらどうか、、。
・いろいろ書きだしてみて、組み立てたり、バラしたりしえみるおです。そうしなすと、かくならなければならない、かくなるべきだという結論が生まれてくるわけです。
・私が一番苦心しているのは人事管理です、、、。
・(商品の)欠点のあるところをわれわれの販売技術とか熱意とか努力で補い、そういった気迫なくして営業は成り立ちません。
・地位は適材適所
・「人」という問題が徹底的に中心となる
・食欲、性欲、自己拡張慾
・人を愛し、国を愛し、勤めを愛する
・経営学は外国の直輸入の経営学では駄目ではないかと思っております。やっぱり日本には日本の風土に合った経営学があるのではないでしょうか。私のこうしたいろいろなことを取り入れて、野田一夫君がそれを体系化しようとしてやってくれています。
・知っているということは存外、判断力とは別物ではないか、、、。
・人と同じでは人以上にはなれません。
座右の銘は、「人の行く裏に道あり花の山」だ。意識して裏道を行く、それは常に自分の頭で考え抜いて方針を定めるということだろう。多数のいうことを真に受けない。人と同じ道は歩かない。そのことごとくが成功することも素晴らしいが、「市村学校」と言われるほど、多くの人材を育てたことは、戦後の日本の復興にとてつもなく大きな貢献をしたことになる。人の問題が中心、人事管理に苦心、適材適所、など「人」に関する言葉を眺めてみると、市村イズムの底流がわかる気がする。市村清のテーマは「人間」だったのだと思う。