サトウハチロー記念館

サトウハチロー記念館は岩手県北上市にある。38年間住んだ東京文京区弥生の自宅の資料を区長選挙のごたごた(記念館をつくるという公約など、、)でイヤになった、ハチローと2番目の妻の次男四郎が、父佐藤紅緑の故郷青森と母佐藤はる(河北新報の一力健次郎社長夫人の妹)の故郷仙台の中間であり、四郎の妻の出身地である北上に建てたという変な理由が記念館に書いてあった。

思っていたより大きな木造の造りで、資料もふんだんに展示されている。館長がハチローの身内なので、率直にコメントがついており、笑を誘う。


1903年生まれのハチローは「ああ玉杯に花うけて」で始まる一高寮歌をつくった佐藤紅緑(1874−1949)の長男として生まれた。紅緑は正岡子規の弟子で、四天王と呼ばれた。作家佐藤愛子は、紅緑と2番目の妻である女優三笠万里子の間にできた子供で、ハチローとは異母兄弟となる。七女でハチローとは20歳ほど年が違う。この佐藤家は変人が多く出ており、愛子の近作「血脈」に詳しい。「まともに育たないのは佐藤家の家系らしい」と書いている。ハチローの述懐によると、紅緑も「あっぱれなるおやじ」だったらしい。小学校落第の時に「そうだろう、そうだろう、当たり前の話だ。わしはお前がもしも進級したら学校へ文句をいいに行こうと思ったんだ」「まァゆっくりやれ、それより方法はない」と言ったとのこと。

ややこしいことに、三笠万里子の付き人の間瀬くらとハチローは最初の結婚している。愛子はハチローに随分と可愛がられており、ハチローを描くエピソードは愛情に満ちている。ハチローの祖父弥六(1842年生まれ)は、福沢諭吉の勧めで脱藩した人物で、弥六の嫡八人目の男子という意味で八郎とつけたというが、後で数えたら実際は九番目であったという。

初めての単行本が出た時、愛子に本を送ってくれて「この世で一番エライ兄さんより 愛ちゃんへ」という言葉がついていて、素っ裸のデブがバンザイしている自画像が添えてあった。ハチローは夏の間は素っ裸で毎日暮らしていた。


小学校時代の同級生で「姿三四郎」の著者である富田常雄が「ハチローは神武以来の不良少年」と語っている。記念館にはヘソでたばこを吸ってみせるサービスをするハチローの写真も飾ってある。交流のあった著名人と並んで警察の名刺が多い。あらゆる刑務所に入った縁で知り合った人たちと友人になっており、罪滅ぼしのつもりか、壮年以降は不良防止、犯罪撲滅、警察官互助運動にも参加しているのは愉快である。

落第3回、転校8回、勘当17回、中学中退というから、その素行は推して知るべしだ。「ビールは一日8−10本。ウイスキーが3日で1本、日本酒も同量ていど。タバコは一日100本、ほとんどアル中、ニコチン中毒に近い、、」と本人も書いているが、結果70歳まで(1973年)生きたから不思議である。ハチローは「ボクは日本一の個人的酒税納税者」と自慢していた。私自身はNHKの人気クイズ番組「話の泉」という番組で活躍する姿を覚えている。

恩師となる西条八十は「サトウハチローなる”大”少年来たる」と日記に記している。強い印象を与えたのだろう。記念館で買った本には、最も尊敬する徳川夢声と最愛の弟子菊田一夫とに挟まれた還暦祝いの祝宴の写真が載っている。ハチローは立ち上がって何か変な棒を持っている。


・ちいさい秋みつけた(誰かさんが 誰かさんが、、、)

  1962年 日本レコード大賞童謡賞

・ちいさい母のうた

・かわいいかくれんぼ(ひよこがね お庭でぴょこぴょこ かくれんぼ、)

・長崎の鐘(こよなく晴れた 青空を、、)

・うれしいひな祭り(あかりをつけましょ ぼんぼりに、、)

・うちの女房にゃ髭がある(何か云おうと思っても 女房にゃ何だか、、)

・二人は若い(あなたと呼べば あなたと答える、、)

・もしも月給が上がったら(若しも月給が 上がったら 私はパラソル 買いたいわ ぼくは帽子と 洋服だ、、)

・りんごの唄(あかい林檎に くちびるよせて、、、)

・悲しくてやりきれない


こうやって並べてみると、随分と知っているウタが多い。


サトーハチローにはお母さんをうたった詩が多い。詩集「おかあさん」は180万部の売り上げを記録した。今でも詩集としては日本記録である。


天真爛漫なハチローと一緒に写っている人々はみんな心から笑っている。こちらも思わず笑がこみあげてくる、そんな人柄である。なんだかこちらも幸せな気分になって記念館をあとにした。