「図解塾」ーー「梅棹忠夫著作集」の図解化が進行中。

夜はZOOMで図解塾を2時間。

私の手書き図解をパワーポイントで清書した図解2枚と、塾生の終了後のコメント。

  • 久恒先生、本日もありがとうございました。最初にご紹介いただいた先生のホームページのリニューアル、先生の人生を振り返る情報がギュッと集まっており公開を楽しみにしています。人生の出来事を都度、記録として残すことが大事。記録がないと記憶は消えて行ってしまい、自分は何もしてこなかったのでは。。。という思考が起こり、老人性うつにつながるのではというお話は、毎日忙しく仕事をしているのに、ふと振り返ると何をやってきたのだろうと記憶にも残っていない自分の日常を反省するきっかけにもなりました。「編集」はリソースを使い、ひとつの成果に向かって業務を推進させていく管理職の仕事にも通じるという高い視点での解釈が腑に落ちました。次回宿題の展示学も図の清書を通して理解を深めたいと思います。
  • 本日もありがとうございました。開始直前に宿題のパワポファイルをデスクトップに貼り付けようとしたらファイルが見つからず、あせって探していたために少し遅れてしまい申し訳ありませんでした。ちょうど久恒先生のホームページのリニューアルのお話の途中で入ったのですが、より洗練されたのに感心するとともに、非常に多くのアウトプットがあるのを改めて素晴らしいと思いました。失礼ながら、いったいいつ寝ていらっしゃるのだろうと思った次第です。さて、内容ですが、毎度のことながら梅棹先生の先見性にただただ驚くばかりです。「展示学」というのは初めて聞く言葉ですが、確かにいろいろな学問分野を総動員する総合的な知的活動ですね。私は動物園、水族館が好きでこれまでよく行っていました。動物園の解説も、一期一会の来園者にいかに伝えたいことを伝えるかという工夫がなされている園にたびたび出会います。まさに梅棹先生のおっしゃってることにあてはまります。管理職は編集者というのも、実感をもってよく分かります。
  • 久恒先生、塾生のみなさん、本日もどうもありがとうございました。「梅棹全集の図解」に久しぶりに参加でき、楽しかったです。今回は情報に関するテーマの部分でしたが、原文を読んでいなくても、梅棹先生がどのように情報を捉え、どれだけ深く、鋭く捉えていたかを感じることができました。これからも久恒先生の図解メモをパワーポイントに落とし込みながら、梅棹ワールドを学ぶことで、いろんな物の見方を身に着けたいと思います。よろしくお願いいたします。
  • 久恒先生、みなさま、図解塾ありがとうございました。「情報と文明」の図解のパワポ化。内容のご説明を含め、今回も梅棹先生の視点や発想の面白さを実感しました。たとえば「展示」。「展示」するということについての関心が「展示学」という学問となり、「展示学」は学際的、経験的、実際的な学問、「わかりやすく、おもしろく、うつくしく」する技術を伴う総合技術、応用的情報科学である、とのこと。普段、展示してあるものはいろいろと見ますが、展示すること自体に着目したことはほとんどありませんでした。これも情報科学技術の一端なのかと思うと、また見え方も違ってきそうな気がしました。「情報社会」という切り口で一つひとつを眺めてみるとこうなる!という展開が面白いところです。次回担当する図解は「情報産業社会における芸能」。高度情報社会では芸能のアマチュア化が進行するという内容。こちらもパワポ化する中でいろいろと気がつくことがありそうで楽しみです。
  • 日もお疲れ様でございました。今回は、前回からの情報の考現学についてのみなさまのパワポをみながら復習。その中でも「編集」という言葉がさす世界が広がった気がいたします。編集者も創造だ。管理職は編集者、情報は累積し酸素に似ている。情報があってそれを技術的に編集する、創造的技術者集団など。それが企画・経営の共通の問題について、今後お話が出てくるのを楽しみにしております。また、次回の課題の一つは「展示学」がキーワードとなってますが、この言葉は初めてききました。体験・学習・動態の展示を意識して、今度美術館や博物館などに行ってみたいと思いました。また、企画展なども誰が監修しているのかも気にしてみたいと思います。芸能のフリーターという言葉も、梅棹先生の言葉のチョイスが面白く、言いたいことが的を得ているというか、よく分かります。次回もよろしくお願いいたします。 

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    昼食は、永山で橘川さんとアッキーと。
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    「名言との対話」7月6日。佐藤紅緑「ナポレオンの臨終の一言は、「進軍」だよ。いいじゃないか、進軍! 実にいい!」
    佐藤 紅緑(さとう こうろく、1874年明治7年〉7月6日 - 1949年昭和24年〉6月3日)は、日本劇作家小説家俳人。 
    青森県弘前出身。中学中退後上京し、遠縁の陸羯南書生を経て、『日本新聞社』の記者となった。以後、地元青森の東奥日報、最初の妻ハルが一力社長の姉だったことから仙台の河北新報主筆、そして大隈重信の報知新聞などで活躍する。
    俳句の革新を目指す正岡子規の門に入り『俳句小史』 ほかの俳論書を刊行。1905年、「俳句研究会」もおこしている。
    1906年発表の小説『行火 』、戯曲『侠艶録』により自然主義の新人として注目される。次第に『虎公』 、『麗人』 に代表される新聞小説を多く書き、大衆小説の人気作家となった。本名は洽六 (こうろく)であるが、その音に漢字をあてた紅緑をペンネームとした。
    少年倶楽部』に「ああ玉杯に花うけて」を連載し、低迷していたこの雑誌を30万部から45万部にのびることに貢献した。紅緑はこの爆発的成功により少年少女小説に新生面を開いた。作風は正義感を貫きながら社会の荒波を乗切るというタッチであり、社会小説の先駆者ともいわれる。
    佐藤紅緑は、詩人サトウ・ハチロー、小説家佐藤愛子の父である。その佐藤愛子が書いた『血脈』を読んだことがある。今回、『花はくれない 小説 佐藤紅緑』(講談社文庫)を読んでみた。
    愛子によれば「小説の中で質実剛健や貧乏を礼讃しながら、贅沢は嫌いでなかった。少年読者に親孝行を説いたが父は親孝行ではなかった。人にお世辞を使うのがうまく、またすぐに人のお世辞に乗った」。愛子はその矛盾は比類のない単純さと正直さのためだと愛情をもって理解している。
    夏目漱石は「はじめて小説を書いてあれだけ出来れば大成功の方だと思う」と感心している。
    少年小説で佐藤紅緑は「少年に勇気、忍耐、友情の尊さを教えようとした。貧乏は恥ではないこと、正直で勤勉な鈍才は鋭才に劣らぬこと、貧しくとも世の中の悪と戦うことはブルジョアの安穏な生活よりも優る」ことを教えたのである。講談社の社長野間清治は「佐藤紅緑は作家にあらず。国士である」と語っている。
    その息子たちは、彼の主張とは違い放蕩の限りを尽くしたが、神武以来の不良少年といわれた長男のサトーハチローが後に詩人として有名になると、「サトーハチローの父」となって喜んでいる。
    愛子は紅緑と2番目の妻である女優三笠万里子の間にできた子供で、ハチローとは異母兄弟となる。七女でハチローとは20歳ほど年が違う。この佐藤家は変人が多く出ており、愛子の『血脈』に詳しい。「まともに育たないのは佐藤家の家系らしい」と書いている。ハチローの述懐によると、紅緑も「あっぱれなるおやじ」だったらしい。小学校落第の時に「そうだろう、そうだろう、当たり前の話だ。わしはお前がもしも進級したら学校へ文句をいいに行こうと思ったんだ」「まァゆっくりやれ、それより方法はない」と言ったとのことだ。
    佐藤愛子が「沸騰している鍋のような生活」と表現する佐藤家の中心にあった佐藤紅緑は、ナポレオンが臨終のときにもらした「進軍!」に感激している。この人も、現状に甘んじることなく常に進軍し、前へ前へと進んでいたから、多くの人々や家族を巻き込む波乱万丈の生涯となったのだろう。