会津八一記念博物館・三木武夫記念館

東洋美術史学の研究者、歌人、書家として多彩な活動をした会津八一を記念した博物館は、早稲田大学キャンパス正門近くに位置する旧・図書館を用いている。坪内逍遥記念演劇博物館訪問の帰路に見つけて入った。この建物は1925年に建てられ、早稲田大学の中でも最も古くかつ優美な建物と言われている。
様々な機会にこの人の名前を聞くことがあった。20年以上前に勉強会の先輩の言葉の中だったり、中津市池大雅の書や絵を保存している自性寺で出会ったりしている。いつもこの人はどういう人なのだろうかと関心を持っていた。演劇博物館の表にある逍遥の銅像に添えた歌も会津八一だった。

会津八一は、1881年8月1日に新潟県で生まれた。すべて8と1で構成されていたので八一と命名された。19歳の頃、新潟での坪内逍遥の講演会に出席し、逍遥の態度と雄弁に感動し、後に生涯の師と仰ぐ端緒となった。1900年に上京するが、脚気を病み帰郷する前に、俳句の正岡子規を訪ねている。八一は逍遥と子規を文芸の師として尊敬する。

早稲田大学文学部を卒業した八一は、26歳で新潟県の有恒学舎の英語教師となる。その後、早稲田中学の英語教師となり、33歳の頃早大文学科講師、40歳で東洋美術史講師となり、美術品の収集を開始する。51歳文学部教授、54歳文学博士、58歳文学部芸術学専攻主任教授、65歳辞任、76歳死去。

早稲田中学の教頭職に就いたときのことが小説にもなっているが、生徒想いの優れた教育者だった。
大正3年に小石川に一軒家を借りて、郷里新潟から上京した学生を預かり、監督指導にあたったときに、「秋草堂学規」を定めており、深く考えさせる。

 1.深くこの生を愛すべし
 1.省みて己を知るべし
 1.学芸を以て性を養うべし
 1.日々新面目あるべし
 秋草堂は我が別号なり。学規は吾率先してきゅう行し、範を諸生に示さんことを期す。主張この内にあり、同情この内にあり、反抗また此内にあり。

昭和2年、大隈講堂において早稲田大学創立45周年祝賀式典が行われ、会津八一が講演をしている。演題は「実学論」であった。この博物館の2階の入り口に掲げてあった額が、この言葉だった。
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実学には世の中のためになる学問と、自分の身になる学問の二つがある。自分がいいたいのは後者で、この学問がそうすれば真に自分の身につくようになるか。早稲田では学の独立とは、外国語から独立して自国語で研究するとか、官学に対して実力をもって対抗するとか、と教えられた。しかし文献や伝説から独立していくことが必要な態度であり、それでこそ今の世に要求される真の学問の独立である。
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会津八一については、まだまだ研究が必要なようである。


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三木武夫記念館--「信なくば立たず」

数ヶ月前に南平台にある政治家三木武夫記念館を訪問したが、会合のため入ることができなかった。今回は2度目の訪問である。
亡くなるまで住んでいた邸宅には睦子夫人が住んでおり、2階が三木武夫の記念館になっている。
平山郁夫先生が語る三木武夫が飾ってある。「ご夫妻で絵、書、陶器に親しんでいる。三木武夫は人物が一回りも二周りも大きい。将来、きっと宰相となる器だ」
井上靖「大きい識見、高邁な信念、志の高さ」
「無信不立」という三木の信念を書いた書も見ることができた。この言葉は自由民主党の総裁選出馬の時に言った言葉である。睦子夫人によれば「若い頃は字が下手だった。40数年書道教室で習い、個展をひらけるようになった」とのことだ。
政治家・三木武夫の大きな写真もあった。どこを見ているかわからない細い眼、強く引き締まった口元が印象的である。

この記念館には書、絵、陶器が飾ってあるというだけだが、事務所で三木武夫に関する最新刊でまだ書店に並んでいない「操守ある保守政治家 三木武夫」という国弘正雄の著作を手に入れて読んでみた。そして筑紫哲也が書いた「旅の途中 巡り合った人々」というエッセーの中で三木を扱ったものも頂いた。これは「三木武夫 クリーンとバルカン」というタイトルで、世評の二つの面から見た三木武夫論であった。

田中角栄総理大臣の後、有名な椎名裁定で総理になり、田中角栄を逮捕させる。石橋湛山松村謙三宇都宮徳馬鯨岡兵輔梶山静六後藤田正晴といったリベラル派の系統の政治家である。

三木武夫については、いずれ詳しく書いてみたい