会津八一記念館ーーー日々新面目あるべし

新潟市会津八一記念館。縁の深かった新潟日報の高層ビルにある。まず、1950 年生まれのリービ英雄のビデオ解説「会津八一の愛した社寺、仏」を聞く。歌人、学者、書家。

中学時代から、良寛の歌に惹かれ、子規にも影響を受け、「東北日報」に投稿する。20歳にして「東北日報」俳句欄の選者となる。坪内逍遥の講演を聴き、態度と雄弁に感動シュル。上京後、尾崎紅葉正岡子規と面談している。子規に『良寛歌集』を贈る、それが越後の良寛から日本の良寛になるきっかけだった。逍遥のいる東京専門学校に入学し、逍遥の指導を受ける。東京帝大を離れ一時早稲田で教鞭をとった小泉八雲にも刺激を受けている。女子美術学校の渡辺文子という才女と恋仲になるが、文子の父から応諾は得られない。八一は生涯独身であった。

早稲田を卒業し郷里新潟県の有恒学舎で英語を教える傍ら、小林一茶を研究し、一茶の「六番日記」を発見した。

29歳で再び上京し逍遥が校長をつとめている早稲田中学校の教員となる。一茶についての講演は相馬御風も聴いていた。相馬は新潟県人で良寛研究家、早稲田大学の「都の西北」の作詞者となった人だ。」で新渡戸稲造柳田国男鳥居龍蔵らの郷土研究会に参加。3年後、早稲田大学英文科講師。自宅を秋草堂と呼び書生を教育する。この学規「一、深くこの生を愛すべし 一、省みて己を知るべし 一、學藝を以て性を養ふべし 一、日々新面目あるべし」を、生きる指針とした学生は多い。「人間の条件」「東京裁判」などをつくった小林正樹監督は「将来の事は東京の地を踏んでから、ただただ先生の学規にそくした生活に一生をささげる覚悟で居ります」と八一への手紙で報告している。

1918年(大正7年)以来、八一は早稲田中学の教頭の地位にあったが、受験名門校にしようとする方針と相いれず、悩み中国、四国、九州へ旅する。このとき、私の故郷の中津を訪れて、自性寺の大雅堂をみている。「葡萄の図並びに賛」をみた。「自己が書家として開眼し、その独自性の自信を得たのは、この自性寺の大雅との出会いのときからである」。「大小すべて四十七枚あり。一巨観たるを失はず。山陽の為に山国川を遡るものは甚だ多きも、下流に此一勝あるを忘れるるもの少からず。これを霞樵山人のために悲しむ」。八一は42歳であった。別府から再び自性寺に寄り、耶馬渓に入る。「谷川のきしにかれふすばらの實のたまたまあかくしぐれふるなり」「ひとみなのよしとふ紅葉ちりはててしぐるる山をひとりみるかな」」「時雨ふる山をしみれば心さへぬれ透るべく思ふゆるかも」

教頭職を辞した八一は、毎年のように奈良を歩く。写真家・小川晴暘と出会い、協力し『室生寺大観』に結実する。「ふじはら の おほき きさき を うつしみ に あひみる ごとく あかき くちびる」。

八一初の歌集は43歳で『南京新唱』。部数800.152首。斎藤茂吉は真淵らが及ばなかった境地であると評している。

1923年、関東大震災。「うつくしき ほのほ に ふみ はもえはてて ひと むくつけく のこり けらし も」「わが やどの ペルウ の つぼ も くだけたり な が パンテオン つつがあらず や」

1925年(大正14年)早稲田中学を辞し、大学の付属高等学院教授、翌年には大学文学部で東洋美術史の講座を持つ。「法隆寺 法起寺 法輪寺 建立年代の研究」で昭和9年に文学博士号が授与される。還暦を迎え、全歌集的な『鹿鳴集』を刊行し多くの文化人から賛辞が寄せられた。この歌集は完全なひらがな表記である。「仮名のみにして記しても、尚ほ人のたやすく理解しくるる如き歌作らばや、と己を鞭ちつつある」。

1946年(昭和21年)、新潟に新しい新聞「夕刊ニヒガタ」の創刊にあたり、社長就任を要請され承諾する。『会津八一全歌集』、『自註鹿鳴集』を刊行。『全歌集』では読売文学賞を受賞した。ひたがな表記に加え、品詞ごとに一字をあける区切り法を実行した。

1950年(昭和25年)古希。新潟県立図書館に歌碑「みやこべ を のがれ きたれば ねもごろに しほ うちよする ふるさと の はま」

1953年(昭和28年)、宮中歌会始の召人。「ふなびとは はや こぎ いでよ ふき あれし よひ の なごり のなほ たかく とmも」

会津八一は1036首と寡作である。与謝野晶子は5万首超、43歳で亡くなった若山牧水は8000首。味わい深い作を詠むというのが作歌観であった。詞書とセットだった。短歌と自註が一体となって鑑賞者を挑発するのである。

1956年(昭和31年)、75歳で永眠。

1998年(平成10年)、早稲田大学坪内逍遥記念演劇博物館前に、逍遥の胸像の下に組み合わされて歌碑が建立された。「むかしびと こゑ も おがらに たく うちて とかしし おもわ みえ きたる かも」。

 「わたしのすべての芸術上の主義は、誰にもわかるようなことを誰にもわかるように表現して、その上に詩でも、あるひは歌でもあらねばならぬと思っている」。 

会津八一 (新潮日本文学アルバム)

会津八一 (新潮日本文学アルバム)

 
會津八一―人生と芸術

會津八一―人生と芸術

 

 

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9月11日。橋本武「幸福とは、好きなことを、好きなように、好きなだけできること」

橋本 武(はしもと たけし、1912年7月11日 - 2013年9月11日)は、日本の国語教師、国文学者。

東京高等師範學校に入学。後半2年間は諸橋轍次大漢和辞典編纂を手伝う。じっくり考える、きっちり調べるという姿勢に感銘を受ける。それが後年の「『銀の匙』授業」の勉強法にも繋がっていく。卒業後、灘中学に奉職。遠藤周作が教え子。71歳で退職し、生前葬「寿葬」を行う。戒名は「教誉愛宝青蛙居士。

 100歳で刊行した『100歳からの幸福論』を読んだ。中勘助銀の匙』を灘中学の3年間かけて読み解く授業で有名になった。授業の流れは、「通読する、寄り道する、追体験する、徹底的に調べる、自分で考える」だ。たとえば、コロリがでてくればコレラの漢字を学ぶ、駄菓子が出てくれば実際に食べる、凧あげでは凧をつくり校庭で凧揚げ大会をする、鮨が出てくれば魚篇の漢字を集める、百人一首ではカルタ会を開く。小説の中身を体験させる授業だ。横道にそれて、知識を広げ、思考を柔軟にする。この授業は90も中ばを過ぎて評判になった。2005年、教え子の黒岩祐治神奈川県知事の『恩師の条件: あなたは「恩師」と呼ばれる自信がありますか?』でブレイクした。早稲田卒のフジテレビのキャスター時代の黒岩さんとはJAL時代によく一緒に遊んだ。「灘高の生徒会長で東大に入らなかったのは僕だけです」という言葉を今でも覚えている。彼は橋本先生の教え子だったのだ。

「大切なことは、人生を生きていくために必要となる「考える力」を養うことです。そして、人生の横道には、キラキラと輝く宝物がたくさん落ちていることを知ることだと私は思うのです」。今ではこういった授業のやり方は「スローリーディング」と呼ばれて広がっている。橋本の食事習慣「しっかり噛む」と同様に、横道にそれるというより、自分でじっくりと咀嚼する読み方であり、深く学ぶやり方だ。私の「名言との対話」も似ている。

橋本は21歳から71歳までの50年間を灘中・灘高で過ごした。50歳「銀の匙授業」2期生が京大合格者数日本一、56歳3期生が東大合格者数日本一。59歳、教頭。71歳で完全退職。この後の「おまけ人生」も実に充実している。趣味が多彩だ。社交ダンス。宝塚歌劇団。和歌。カメラ。旅行。能・歌舞伎。茶。郷土玩具。カエルグッズ。和綴じ本づくり。この人はチャレンジャーだ。人生を楽しむ人だ。86歳、紫式部になったつもりで『源氏物語』の現代語訳に挑戦し、足かけ9年かけて94歳で完成する。しっかり噛む、歩く、生酵母を愛飲、おしゃれ、などが健康の秘訣だそうだ。

98歳、数えで99歳の白寿を盛大に祝う。自宅の表札は「青蛙人形館」、自らつけた戒名も「青蛙居士」である。100歳時の次の目標は、数えで108歳の茶寿(茶を着る予定)、111歳の皇寿(金色の指輪を準備)、120歳の大還暦(真赤な服)と決まっていた。「生きるとはこの世にうけし持ち時間 悔いを残さず使ひきること」という歌を詠んでいるとおりの生涯を送った。この本を書いた翌年、101歳で天寿を全うしたが、悔いはなかっただろう。

100歳からの幸福論 伝説の灘校教師が語る奇跡の人生哲学

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