「名言との対話」2月28日。坪内逍遙。
- 「知識を与えるよりも感銘を与えよ。感銘せしむるよりも実践せしめよ。」
- 早稲田大学の大隈講堂を背に歩いて行くと、創学の父・大隈重信の銅像がある。朝倉文夫の作だ。下から見上げると大隈の像が紅葉を背景に空に映える。その少し前を右に折れると木立の向こうに、白い漆喰の壁とハーフティンバーの柱の英国風の古い洋館が目に入る。ロンドンにあったエリザベス朝時代のフォーチュン座を模した建物である。この建物は坪内博士の顕彰と演劇資料の消滅を防ぐため、坪内逍遥が「シェークスピア全集」全40巻の完訳を終えた古希(70歳)の1928年(昭和3年)に1500余の人の協賛を得て完成し、早稲田大学に寄贈されたものだ。450余坪のこの館事体も演劇史研究の資料でもある。正面の張り出し舞台では演劇が催されることもある。
- 坪内逍遥は1859年に岐阜県美濃加茂市に生まれる。開成学校(東大)卒業後、東京専門学校(早稲田大学の前身)に迎えられる。文学部創設、雑誌「早稲田文学」創刊、早稲田中学校長を歴任するなど、早稲田大学の発展に大きく貢献する。この間、小説の分野では27歳のとき文学論「小説神髄」とその実践作「当世書生気質」などを発表、演劇界では文藝協会を設立し実践と理論を推進した。そして「教育が本業」という逍遥は優れた感化力で熱心に教育にあたっている。会津八一なども逍遥に大きく深い影響を受けている。文学・演劇・舞踏・児童劇・美術・教育の多方面にわたって、革新的で先駆的な業績を遺している。また逍遥はシェークスピア全集の翻訳に終生専心して1935年2月28日に77歳で没した。逍遥は近代日本文化の偉大な開拓者だった。
- 逍遥記念室では逍遥の生涯を通じた多彩で豊かな活動に驚きを覚えるが、その目標は近代日本文化の創造にあった。革新と創造、理論と実践、和漢洋の調和、民衆の教化という考えが貫かれている。77歳で「新修シェークスピア全集」を完訳した際、「これのみはおほしたて得つほかの花はただ苗のみを植えすてしわれ」と読んだ。
- 幅広い分野にかかわりながら「教育者が本業」という自覚があった逍遥は、1896-1903年の間、早稲田中学の教頭、校長も歴任している。青少年教育・倫理を扱った実践倫理の講和や論考をまとめた「通俗倫理談」は逍遥の著作の中で最も多く読まれたものの一つだ。また論語・バイブルなどを系統的に編纂した「中学修身訓」巻一の第一課には「悪と知らばすな 善と知らばなせ」とある。
- 教師のレベルに、「ただしゃべる・説明する・自らやってみせる・心に火をつける」という段階があるという外国人教育者の説があるが、教育者・坪内逍遙は「知識の伝授。感銘を与える。実践させる」という。心に火をつけて、さらに実践をさせるまでの影響力を与えるのが真の教育者だという逍遙の言葉に納得する。