梅棹ゼミ「いま、『知的生産の技術』を読みなおす」第5回(最終回)ーー「かく」

「知的生産の技術」ゼミの第5回。次回は発表を予定。

以下、都築さんの報告。

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深呼吸学部梅棹ゼミ「いま、『知的生産の技術』を読みなおす」第5回を終えました。今回は、「かく」という言葉でまとめられる、「7 ペンからタイプライターへ」「8 手紙」「9 日記と記録」「10 原稿」「11 文章」の5つの章を読みなおしました。参加者は5名でした。これまでどおり、はじめに都築の方から図解にしたものを使って説明し、意見交換などを行いました。
今回は、ページ数としては多かったのですが、「ペンからタイプライターへ」など、ツールや環境が現在とは全く違う部分が多くありました。しかし、その中で現在の私たちの知的生産につながるような気付きがありました。また、「日記」や「文章」などで参加者の体験や実践などについても出し合いました。
いくつか、重要だと思われたフレーズをひろってみます。
「形式を排して、真情吐露をとうとぶという風潮は、結果においては、手紙を一部才能人の独占物にしてしまった。」 「日記が続かないのは、日記のことを文学の問題としてかんがえる習慣があるからだろう。」「日記は、自分自身のための、業務報告である。」「日記というものは、時間を異にした『自分』という『他人』との文通である。」「ものごとは、記憶せずに記録する。」「人生をあゆんでいゆくうえで、すべての経験は進歩の材料である。」
参加者からは、日記については10年日記を30年間つけ続けたとか、Evernoteを使っているなどの実践の話も出ていました。文章については、自分の周りにいろんな素材のもとが漂っていてテーマを投げると結晶化するとか、アイディアを図で考えるようになってからまとまるのが早くなった、などが参加者から出ていました。
久恒先生から、野田一夫先生が2003年から2015年まで毎週800字の葉書を書いて送っていたという話や、本居宣長金子兜太阿久悠が長く日記を書き続けた話、日記は自分を浄化する機能があるという話などをうかがいました。

私の途中のメモから。

  • 日記と日誌。経験より体験。野田先生のラポールは晩年のモデル。自己浄化。日記は最高の財産。阿久悠は9700日。図読は究極の精読法・究極の速読法。
  • 何を発見したか。正書法ピカソ(絵画)。鈴木健二(原稿)。現代の論語。言文一致。

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俵万智「めっちゃ夢中 とことん得意 どこまでも 努力できれば プロフェッショナル」

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明日の「幸福塾」の準備:「ライフワーク」。

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「名言との対話」2月28日。坪内逍遙「これのみはおほしたて得つほかの花はただ苗のみを植えすてしわれ」

 坪内 逍遥(つぼうち しょうよう、旧字体坪內逍遙1859年6月22日安政6年5月22日) - 1935年昭和10年)2月28日)は、日本小説家評論家翻訳家劇作家

坪内逍遥は1859年に岐阜県美濃加茂市に生まれる。開成学校(東大)卒業後、東京専門学校(早稲田大学の前身)に迎えられる。文学部創設、雑誌「早稲田文学」創刊、早稲田中学校長を歴任するなど、早稲田大学の発展に大きく貢献する。

この間、小説の分野では27歳のとき文学論『小説神髄』とその実践作『当世書生気質』などを発表。演劇界では文藝協会を設立し実践と理論を推進した。

「教育が本業」という逍遥は優れた感化力で熱心に教育にあたっている。会津八一なども逍遥に大きく深い影響を受けている。文学・演劇・舞踏・児童劇・美術・教育の多方面にわたって、革新的で先駆的な業績を遺している。また逍遥はシェークスピア全集の翻訳に終生専心して1935年2月28日に77歳で没した。逍遥は近代日本文化の偉大な開拓者だった。

2005年。早稲田大学の大隈講堂を背に歩いて行くと、創学の父・大隈重信銅像がある。朝倉文夫の作だ。下から見上げると大隈の像が紅葉を背景に空に映える。その少し前を右に折れると木立の向こうに、白い漆喰の壁とハーフティンバーの柱の英国風の古い洋館が目に入る。ロンドンにあったエリザベス朝時代のフォーチュン座を模した建物である。この建物は坪内博士の顕彰と演劇資料の消滅を防ぐため、坪内逍遥が『シェークスピア全集』全40巻の完訳を終えた古希(70歳)の1928年(昭和3年)に1500余の人の協賛を得て完成し、早稲田大学に寄贈されたものだ。450余坪のこの館事体も演劇史研究の資料でもある。正面の張り出し舞台では演劇が催されることもある。

一階は、演劇関係書籍の閲覧室・事務室・インフォメーションカウンターを挟んでシェークスピアの世界展示室と特別展示室がある。2階には「逍遥記念室」と2つの企画展示室と民族芸能室。3回は日本の演劇に関する古代から、中世、近世、近代、現代と続く歴史が展示されている。 

逍遥記念室に入る。逍遥の生涯を通じた多彩で豊かな活動に驚きを覚えるが、その目標は近代日本文化の創造にあった。革新と創造、理論と実践、和漢洋の調和、民衆の教化という考えが貫かれている。77歳で「新修シェークスピア全集」を完訳した際、「これのみはおほしたて得つほかの花はただ苗のみを植えすてしわれ」と読んだ。

ロシア風の黒い帽子を被り、メガネをかけ、白いヒゲ、コート、ステッキ、カバンを持つ在りし日の逍遥の写真に見入る。この写真は1927年(昭和2年)12月16日のシェークスピア最終講義時の写真である。愛用した原稿用紙には、真中に「逍遥用紙」と印刷されている。筆や硯、墨などが展示してあるが、隣の印、筆、朱肉などは弟子でもあった会津八一から助言を受けた。西洋文化に造詣の深い逍遥は、不思議なことに生涯英国を訪れることはなく、教え子たちの洋行のお土産であるシェークスピア人形や豆本などを大事にしていた。

翻訳の分野では、小説から戯曲へ関心が向かうが、その目的は国劇向上のための実演にあるとし、古語・現代語・方言語・漢語を駆使した自由訳を推進している。シェークスピアは、沙翁と書く。明治42年から大正12年にかけて発刊された20巻、対象15年から昭和3年にかけて発刊された20巻が展示されている。そして用語、文体の統一を目指したライフワーク『新修シェークスピア全集』も見ることができる。

幅広い分野にかかわりながら「教育者が本業」という自覚があった逍遥は、1896-1903年の間、早稲田中学の教頭、校長も歴任している。青少年教育・倫理を扱った実践倫理の講和や論考をまとめた『通俗倫理談』は逍遥の著作の中で最も多く読まれたものの一つだ。また論語バイブルなどを系統的に編纂した『中学修身訓』巻一の第一課には「悪と知らばすな 善と知らばなせ」とある。

教師のレベルに、「ただしゃべる・説明する・自らやってみせる・心に火をつける」という段階があるという外国人教育者の説があるが、教育者・坪内逍遙は「知識を与えるよりも感銘を与えよ。感銘せしむるよりも実践せしめよ」が基本的な考えだった。心に火をつけて、さらに実践をさせるまでの影響力を与えるのが真の教育者だという逍遙の言葉に納得する。

「演劇」面では、近松門左衛門鶴屋南北、錦絵の研究(歌舞伎の画証)、シェークスピアイプセンの研究、東西の劇場比較を行った。そして童話劇が娯楽本位だったことに対し、教育的要素に欠けていると批判し「家庭の芸術化」を掲げ、児童劇を提唱し、公演活動も行っている。

演劇研究実演団体として「文芸協会」を設立し、1909年には演劇研究所をつくり新時代の俳優の養成を行い、「ハムレット」「人形の家」などを上演した。新劇運動の先駆として松井須磨子澤田正二郎を生んだ。

またわが国の古典演劇の音楽性、舞踏性を踏まえた新しい国民的楽劇の樹立を目指し、ワーグナーの研究も行い、「新楽劇論」と「新曲浦島」を発表するなど新舞踏の向上発展に努めた。

劇作面では、演劇革新を志し、シェークスピア近松門左衛門の研究を行い、新史劇「桐一葉」等の新歌舞伎作品を発表、また近代戯曲「役の行者」、喜劇や翻訳劇を書いている。

文学の面では、少年時代に影響を受けた滝沢馬琴の勧善懲悪主義から写実・客観・心理主義を提唱した。上巻が原理・下巻が作法(小説技法)である『小説神髄』、それを実践した小説であり新時代の書生の生態を描いた『当世書生気質』を著した。「小説の主脳は人情なり 世態風俗これに次ぐ、、」と小説神髄で述べている。

「民俗芸能室」では、日本は舞台芸能と民俗芸能のなど芸能の豊かな国であり、双方が影響を与えあったとしている。歴史を展示している。清め・祓い・鎮魂のための芸能である神楽、田に関する芸能である田楽、盆踊り・獅子舞などの風流(ふりゅう)などの説明がある。

常設展示の「日本の演劇」では、古代、中世、近世、近代、現代と時代に沿って私たちの身近な演劇の歴史を展示している。古代では、伎楽、散楽、舞楽。中世では、田楽、延年、能・狂言。近世では、歌舞伎、人形浄瑠璃。近代では、新派、新劇、新国劇、喜劇、軽演劇、ストリップ、少女演劇、ミュージカル。現代では、古典芸能・商業演劇・新劇・小劇場の演劇など多種多様な演劇についての情報を提供している。

2階から3階の廊下には、シェークスピア演劇に関する資料や映像、実物などが展示されている。

最後に、1階で逍遥に関する書籍を求めたがない。わずかな販売品に『逍遥日記『』があった。明治20年の29歳から昭和10年の77歳まで書かれている。「逍遥日記」の大正5年から大正8年までの巻と、大正15年から昭和3年までの巻を購入する。大正5年は逍遥58歳。前年早大教授を辞任し、閑暇を得た逍遥は、創作、翻訳、研究の道に邁進した年である。年末には自分の将来の仕事の目標11ケ条を定め、着実に実行していく。大正7年には大隈候からの学長就任要請を辞絶している。この演劇博物館の開館式が行われた昭和3年10月27日の日記には「土 快晴 深沢来、揮毫依頼 一時より演博開館式了」と簡潔に記している。逍遥は謝辞として、約1時間に及ぶ名演説を行い、参列者に大きな感動を与えたという。

演劇博物館を出ると逍遥の像があった。シェークスピアを講義する逍遥の銅像である。台座には「むかしひと こゑもほからに たくうちて とかししおもわ みえきたるかも」という会津八一の筆の歌が刻まれてある。代歌人、書家とし屹立した存在であり、東洋美術史として独自の世界を切り拓いた会津八一は、逍遥の愛弟子である。この八一が「さすがに気廊の大きさ、学識の深さ、廣さ、燃ゆるばかりの熱意、行き届いた親切心、明確な道義心、かぞへ来ればかぞへつくせぬ偉さに、驕慢な私も、頭を下げたのは坪内先生であった。「私が五年間、早稲田で、すなほに辛抱していたのは。この先生一人居られたためであろう」と述べているのをみても、明治に生きた教育者としての逍遥の懐の深さを感じる。

坪内逍遥は、近代日本の偉大な開拓者であったと実感した訪問だった。77歳で『新修シェークスピア全集』を完訳した際、「これのみはおほしたて得つほかの花はただ苗のみを植えすてしわれ」と読んだ。日本文化の近代化のあらゆる方面に苗を植えようとしたのだ。その苗は「原型」であったのだろう。その原型が育っていったのである。