宮澤賢治記念館

三陸地震の年1896年に生まれた宮澤賢治の記念館(花巻市)訪問は、2年前の連休から2度目である。前回はもう桜の季節は終わり、若葉が目に眩しい素晴らしい季節だった。今年は春が遅いおかげで、桜の満開の季節の訪問となった。「風の又三郎」企画展が開催されていた。


賢治が生前に出版したのは意外なほど少ない。詩集「春と阿修羅」と童話「注文の多い料理店」の2つである。盛岡中学で10年先輩となる石川啄木の「一握の砂」に影響を受けた賢治が注目を浴びるのは、死後のことである。自費出版の「春と修羅」は辻潤が評価し、中国にいた友人の草野心平に知らせる。草野は賢治の書を「世界の驚異」と表現している。草野は友人の高村光太郎にみせたことが縁で、賢治は5分ほど光太郎と立ち話もしている。賢治より13歳年長の高村光太郎は賢治の詩を発表すべきだと考え、東京で宮澤賢治追悼会を開いている。そして宮澤賢治全集を10年かけて刊行する。


賢治の詩や童話、研究は、死後日本だけでなく、世界に広がっていく。翻訳された言語は、仏、中、英、エスペラント、独、ハンガリーチェコ、スペイン、イタリア、ポルトガル、スエーデン、ヒンディーなどである。世界で賢治は読まれ続けている。世界紛争の原因は言語にあるとみたポーランド生れのユダヤ人ザメンホフ(1859-1917)が発明した世界語・エスペラント語で賢治自身も書いている。個人の救いよりも、全体を救うことで個人も救われるとの法華経の教えとエスペラントの思想は相性がよかったようだ。

1995年のル・モンドは「宮澤の童話は、決然としたナイーヴさと洗練された知性との、独特の均衡を表している。物語の一篇一篇に比類ない詩的センスがこめられr、その哲学的な世界観はラーゲルレーフのように人間中心主義でなく、もっと汎神論的・官能的で高揚感がある」と絶賛していた。詩人・宗教者・教師・科学者・農業者・芸術家・と多彩な活動をした宮澤賢治の業績や思想を研究する「宮澤賢治学会」も活発に活動しており、宮澤賢治イートハーブ館にその拠点がある。


戦争の暗雲たなびく時代にあって、有名な「雨にも負けず」の詩は死後、谷川徹三によって大政翼賛をあおる詩集として修身の副読本として取り上げられた。戦後は復興に励む人間像として国定教科書に載り、日本人の多くが知る詩となった。死への旅立ちに向かって、昭和6年9月21日の遺書、昭和6年11月3日の詩「雨にも負けず」、遺品の中から発見された短歌、そして昭和8年9月20日の絶筆と心境が綴られている。ここに「雨にも負けず」の最後に記された「南無妙方蓮華経」の7行の意味を解く鍵があるようだ。


雨ニモマケズ

風ニモマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ

慾ハナク

決シテ瞋ラズ

イツモシヅカニワラツテイル

一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ

アラユルコトヲ

ジブンヲカンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリ

ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萱ブキノ小屋ニイテ

東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ

南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

北ニケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒドリノトキハナミダヲナガシ

サムサノナツハオロオロアルキ

ミンナニデクノボートヨバレ

ホメラレモセズ

クニモサレズ

サウイフモノニワタシハナリタイ


南無無邊行菩薩

南無上行菩薩

南無多宝如來

南無妙法蓮華経

南無釈迦牟尼

南無浄行菩薩

南無安立行菩薩


賢治は盛岡高等農林の教師として充実した日々を送っていたが、全体主義的教育方針に違和感を感じ「農民のために尽くす」という使命感に燃えて、職場を辞している。農民は奥州藤原時代以来イキイキと藝術を楽しみながら生きてきたとして農民藝術を提唱した。賢治によれば農作物は芸術作品である。


これほどの人物が生前なぜ知られなかったのか不思議に思ったが、当時の環境下で賢治の思想を描いた詩や童話には出版社は二の足を踏んだというのが実情のようだ。例えば鈴木三重吉という童話作家は、「これは日本では発表できない。ロシアに持っていけ」とアドバイスしている。


賢治は「俺はひとりの修羅だった」と言っている。天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄とつながる六道の中の修羅である。息を吸うことで微生物を殺すことになる、生きている限り罪は重いという思想である。極めて繊細な感受性の持ち主であり、生きることが苦しかっただろうと思う。

また、帰りの車の中で記念館で買った「注文の多い料理店」のCDの朗読を聴いたが、考えさせる物語だった。


賢治は父との宗教的葛藤に苦悩する。父は個人の救済を主張する浄土真宗の有名な活動家であり、息子の賢治は世界の変革を説く日蓮宗に帰依する。そして父は賢治の死後、改宗という決断を下す。


文学と科学と宗教が矛盾なくとけあった独自の世界を築いた宮澤賢治は、37歳の若さで世を去る。行き詰まりを見せる世界の中で、賢治ブームはますます強い勢いとなっていくのではないかとの思いを強くした。こういうふところの深い人物の記念館は、何度も訪れ、少しづつ理解を深めていく必要がありそうだ。。