「男女ものでいいんだ。生涯これを書いていこう」−−渡辺淳一

先日訪れた札幌の渡辺淳一記念文学館で手に入れた「渡辺淳一の世界2−−1998−2008 失楽園から鈍感力まで」(集英社)を読んでみた。

北海道新聞連載のための語りおろし「愛と生を書き続けて」が面白かったので、この中からいくつか言葉を拾ってみたい。渡辺淳一のライフワークは、「男女もの」である。そこに至る経緯と、氏の決意がよくわかる内容だった。

失楽園〈上〉 (角川文庫)

失楽園〈上〉 (角川文庫)

愛の流刑地〈上〉

愛の流刑地〈上〉

  • 「何でも好きなことを思い切りやりなさい。でも責任は自分でとるんだよ」といって許してくれた母の存在は、私にとって大きなものでした。
  • 死は限りなく「無」であり、放っておくと死体は着実に腐ると知りました。死は腐敗なのです。だから、「今しかない、今、生きている間に思い切り何かをしないと意味がない」、と思いました。
  • 医療という現場はエゴイズムがぶつかり合う、極限状況が見られるすてきな場所でもありました。
  • 「何でもいいからまず書いて有名になりなさい。有名になれば書きたいものも書けるようになる。その前につまらぬことで悩んでいるうちに、君自身が消えてしまうよ」と(伊藤整先生に)言われたのです。
  • 「君ね、できたら一度でいいから、ベストセラー作家になりなさい」
  • ベストセラーを出すと人が寄ってきて、「書いてくれ、書いてくれ」とせかされ、追われて、そこで初めて隠れていた自分の能力を引き出される。ベストセラーを出した人間とその経験のない人間では力のつき方が違う、とも言われました。「だから、一度はスターに、時代の寵児になりなさい」と言われたのです。
  • 大学病院にいるのはもう無理だと思いました。、、、今こそ上京して作家一本でやってみよう、年齢的にも、タイミング的にも今しかない、そう考えて決心したのです。ちょうど35歳の春でした。
  • 原稿依頼が途切れなくなり、私はそれをこなし続けるため、小説の舞台となるフランチャイズを三つもとうと考えました。一つは今住んでいる東京、二つ目が生まれ育った北海道、そして三つ目が京都です。
  • 男女ものの小説を書く人が減った理由の一つは、書けば自分が傷つくからです。まず、家庭でトラブルになるし、世間的にも批判を浴びる。しかし、それを乗り越えられてこそ作家です。
  • 40代半ばに、私は得意にしていた医学ものと歴史物からいったん離れようと決意しました。それらより、自分の想像力で書く現代ものに引かれたのです。
  • 「これ(「ひとひらの雪」)を書いていて間違いない。男女ものでいいんだ。生涯これを書いていこう」と確信したのです。ちょうど50歳目前のときでした。
  • 65歳の時に札幌・中島公園の近くにエリエールスクエア札幌「渡辺淳一文学館」を大王製紙に建ててもらいました。
  • 今年71歳になりましたが、ここまで来られたのは、やはり健康だったからです。小説を書くのは知的作業というより、肉体を酷使する一種の格闘技のようなものですから。執筆スタイルは40代のころと変わっていません。前夜酒を飲んでも、朝早く起きて原稿を書き始めます。厚めの原稿用紙と鉛筆と消しゴムを使って、行きつ戻りつしながら書くのが男女ものに合うのです。

 やりたいことはたくさんあります。読みたい本や資料もあるし、映画や芝居も見たい。ゴルフもしますし、囲碁、将棋も有段者です。車で北海道の海岸線も回ってみたいし、そして女性との付き合いも、、、。
 デビュー30周年の時、「原稿用紙のマス目を一つづつ埋めてここまで来た」と思いましたが、10年たった今も同じです。握る鉛筆が2Bから4Bへと少し柔らかくはなりましたが、これからも行きつ戻りつしながら、やはり男女ものを書き続けていきたいですね。
        (平成17年初夏)