田子の浦の万葉歌碑。三島の大岡信ことば館


富士市は、万葉集の有名な歌で歌われたところだ。
殺風景な港の一角の工事現場に接して、不思議な形をした万葉歌碑群を同行の母が発見する。この歌が歌われた風景はいまは全くない。
 
 田子の浦ゆうち出でて見ればま白にぞ富士の高嶺に雪は降りける(山部赤人・富士を望む歌)

赤人は生年没年不明。奈良時代歌人柿本人麻呂と並ぶ。政府の役人として東国に赴く道すがら詠んだ叙景歌の最高傑作。

その右に長歌の碑がある。長歌は、575が延々と続き、最後に77で終わるという形式の歌、それを受けて57577の半歌が詠まれる。

 天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振りさけ見れば 渡る日の 影も隠れらい 照る月の 光も見えず 白雲も 行きははかり 時じくぞ 雪は降りける 語りつぎ 言い継ぎ行かん 富士の高嶺は

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その歌碑のすぐ近くに記念碑があった。日露友好関係樹立150年を記念して建てられた記念碑で、建立は2005年1月15日とあった。
日本側は、下田市富士市戸田村。ロシア側は、サンクト・ぺテルブルク市、クロンシュタット区。
ロシアのプチャーチン海軍中将は、1852年位長崎、そして1854年に下田港に来ている。下田では日本全権の筒井政憲川路聖謨と日露友好条約を結ぶ。下田港に停泊中に船が安政の大地震津波で大破し駿河湾で沈没するが全員救助される。1855年にロシアに帰国する。

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三島駅前のビルの一階と二階に、大岡信ことば館がある。隣には日大の国際関係の学部、短大、大学院のビルが建設中だった。この大岡信ことば館は、受験添削のZ会が設立したものと聞いて驚いた。2009年10月開館の優れた施設だ。
大岡信は1931年生まれで現在80歳。今はこの近くの裾野に住んでいる。東大文学部国文科を出て読売新聞外報部記者になる。32歳で退職。以後、34歳明治大学に就職し39歳教授。57歳東京芸大教授。58歳日本ペンクラブ会長。66歳朝日賞・文化功労者、72歳文化勲章、、。
大岡信朝日新聞に29年間6762回連載した「折々の歌」が有名だ。短歌、俳句、漢詩、歌謡、川柳、近現代詩を180字で解説した。母の歌も取り上げてもらったことがある。
「私は古今の詩句を借りて、それらをあるゆるやかな連結方法によってつなぎとめながら、全体として一枚の大きな詩の織物ができ上がるように、それらを編んでみたいと思ったのである。」
著作が並べてある書棚をみたが、詩集、文庫、全集、批評・評論、紀行・エッセイ、折々の歌、編纂、その他と分類してある。数百冊あった。
この館では、開館以来6回の展示を行って、大岡信の詩の世界を造形化し、視覚化した。そして今は万葉集をテーマとした展示がされている。

井上靖(今回記念館は訪問できなかった)、芹沢光冶良、大岡信の三人は、日本ペンクラブの会長を経験しているが、全員が沼津中学の出身者だった。
大岡信の息子は作家の大岡怜。本をかなり買い込んだ

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