孫文と梅屋庄吉-100年前の中国と日本

上野の国立博物館で二つの企画展が開かれている。「孫文梅屋庄吉展」。「空海密教美術展」。

まず、「孫文梅屋庄吉」展から。
今年2011年は、清朝が倒れた1911年の中国の辛亥革命から100年にあたる。革命が起こり孫文が上海に帰ってきたとき、「私は金は一文も持って帰らない。携えて来たのは革命の精神である」と言ったそうだ、。
中国と台湾双方から国父と呼ばれている孫文は、日本との縁が深い。中国革命がなった後、革命に貢献した日本人として、幾人かの人物を挙げている。

資金援助は、久原房之助と犬塚信太郎。奔走したのは、山田良政、山田純三郎兄弟。宮崎弥蔵、宮崎寅蔵(滔天)兄弟。菊池良士。萱野長友。不思議なことに、孫文と宋慶令が結婚披露宴を挙げた家の持ち主である梅屋庄吉の名前は出てこない。それは、孫文(1866-1925年)と梅屋庄吉(1868-1934年)が1895年の双方が20代後半の若いときに交わした「孫文の革命を梅屋が資金援助する。このことは一切口外しない」という盟約のためだった。二人は二つしか年齢は違わない。庄吉は「君は兵を挙げたまえ。我は財を挙げて支援す」と孫文に言った。
この企画展では、多くの歴史的写真が展示されていた。そのことは梅屋の仕事と関係がある。この梅屋という人物は、香港、シンガポールなどでも写真業を営む国際的実業家であり、そこから発展して映画興行を大々的に行った人物だった。日本活動写真、後の「日活」を創業したメンバーの一人で、創業時には取締役を引き受けている。この写真業と映画事業の収益を孫文の中国革命に注ぎ込んだのだ。
梅屋は、1911年にはカメラマンを中国各革命の戦場へ送り出し、1912年には白瀬中尉の南極探検の記録映画をつくり全国で上映するなど熱血漢だった。
1915年には、東京大久保の梅屋邸で孫文宋慶齢の結婚披露宴を行っており、この時の写真は、上海の孫文記念館でも見たことがある。2008年の上海万博でも「孫文梅屋庄吉展」が開催されている。
孫文死去の後も、1925年には東京で孫文追悼会を開き、1929年には南京で孫文銅像を建てている。この時の写真では梅屋の隣は孫文の後継者・蒋介石(1887-1975年)とその妻・宋美齢(宋慶令の妹・1897-2003年)だった。
孫文が梅屋に送った「同仁」という書は、すべてのものを平等に愛するという意味がある。
また、梅屋は、「積善家」というい書を書いている。積善の家には必ず余慶ありという意味である。
梅屋庄吉のひ孫にあたる小坂文乃の「革命をプロデュースした日本人 評伝 梅屋庄吉」(講談社)には、さまざまのドラマが記載されていた。
妻となった宋慶令は、日本で孫文の秘書をつとめており、その時に聡明で美人で新しい文化を身に付けた宋慶齢孫文が恋に落ちたのである。慶齢は上海から家出をして孫文のいる日本に戻った。結婚時は孫文49歳、慶齢は22歳だった。慶齢は孫文亡き後は中国共産党で活躍し、国家副主席にまでなっている。北京の宋慶齢記念館では、毛沢東金日成と談笑する慶齢の写真を見たことがある。
「ワレハ中国革命ニ関して成セルハ 孫文トノ盟約ニテ為セルナリ。コレニ関係スル日記、手紙など一切口外シテハナラズ」というノートを梅屋は残している。迷惑を受ける人のことを案じたのだ。そのことが梅屋の名があまり知られていない原因だった。
美男、おしゃれ、美食家、早起き、そして書斎にこもる人だったそうだ。そして映画の黎明期の主役の一人であり、アイデアマンだった。
友人・宮崎滔天の息子龍介は梅屋の自宅によく来ていた。それが後に歌人柳原白蓮が大富豪の夫を捨てて若き東京帝大生との逃避行を実行する。白蓮36歳、龍介29歳。この当時、この不倫騒動は大いに世間を騒がせた。その後、白蓮は81歳で天寿を全うするまで龍介と仲むつまじく暮らした。
梅屋は孫文の南京での国葬の時には、日本人としてただ一人孫文の柩に付き添っている。
映画事業で手にした巨万の富は、中国革命の支援と、孫文銅像の制作などで、きれいさっぱりなくなった。この銅像毛沢東紅衛兵の攻撃にあったとき、周恩来が「日本の大切な友人である梅屋庄吉から贈られたもの。決して壊してはならない」ととめて難を逃れた。
中国革命は日本人の支援者無くしては為し得なかったという説もあるほど、孫文の支援者は多かった。清朝は倒れたが、孫文が遺書で言っているように「革命はいまだならず」で、中国は共産党の国になっていき、日本とは戦争状態になっていった。このため、日中双方とも、こういった日本人の存在について触れないことになってしまった。梅屋のほかにも、熊本出身の宮崎滔天などももっと知られていい人物だと思う。

以下、余談。
梅屋庄吉(1868-1934年)は関東大震災は避暑のために滞在していた千葉の別荘で遭っている。13日には大久保の留守宅に向かった。「東京市民の惨害は酸鼻の極に達し到底筆紙のよくする所ではない。、、この世ながらの修羅地である。」「最近の鮮人騒ぎの〇〇に顧みるときは、負けいくさに対しては、国民は必ずしも頼もしき国民ではないとの観念を一般外人に抱かしむるに至ったことを残念に思ふものである。、、朝鮮人騒ぎの経験は日本国民性の最大欠点を遺憾なくばく露したるものとして切に国民的反省を促さんとするものである。」

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本日の数句。

震災の 混迷深め 夏過ぎぬ
蝉しぐれ 上野の森に 歴史あり
ひぐらしや その日暮らしの 日々刻む