「司馬遼太郎の誤りを正す・附 司馬遼太郎氏を偲ぶ」

NHKの3年越しの大型ドラマ「坂の上の雲」が佳境に入っている。
数ある司馬遼太郎作品の中でももっとも感銘を受けた小説である。司馬遼太郎の作品の読まれ方は尋常ではない。2005年現在で200万部以以上の部数の作品は20作品以上で、「坂の上の雲」は「竜馬がゆく」の2125万部に次ぐ1475万部である。それから数年を経ているので、「坂の上の雲」はもう2000万部を突破している可能性もある。因みに3位の「翔ぶが如く」は1070万部、4位の「街道をゆく」が1051万部だ。途方もない読者数といっていい。

ビジネスマン時代には司令官型よりも参謀型を目指していた私は、日本海海戦の作戦参謀・秋山真之をモデルに仕事に励んでいた。客室本部という大きな部隊の参謀時代は、常に自分の組織を海軍に見立てて、秋山の作戦立案や海軍の人事制度などを研究したものだ。

さて、司馬遼太郎作品はNHKの大河ドラマの多く用いられているが、この「坂の上の雲」だけは許さなかったといわれている。
その謎に那須の乃木記念館で触れたことがある。
以下、その2004年当時のメモを以下に記す。

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那須日露戦争の英雄・乃木希典を祭った乃木神社では、2004年12月から2005年5月にかけて日露戦争100年祭が行われている。2004年12月5日は203高地陥落100周年、2005年1月2日は旅順陥落100周年、3月10日は奉天会戦、5月28日は日本海海戦。この100年祭は「日露両国の殉国者を共に慰霊」という趣旨だった。
乃木記念館には「忠孝」と達筆で書かれた乃木の文字やこの那須の地に20年住みながら農業に励んだ「農事日記」が展示されていた。国の富強の大本は農業にあり、路傍に黄金が満ちるといった詩も素晴らしかった。
ロシアの敵将ステッセル将軍らとまみえた有名な水師営会見での打ち解けた写真。明治天皇崩御で自刃した時の「遺言條」(大将元年9月12日夜)では第一から第十までの遺言が書き連ねてあり、宛名は妻の静子だった。この時点では静子は殉死する予定ではなかったようだ。軍神とあがめられた乃木の葬儀には20万人という前代未聞の人々が弔問に訪れたという。神社内には53坪の「乃木希典那須野旧宅」が残っていた。

「名将乃木希輔」(桑原巌)という書物を神社で購入する。副題には「司馬遼太郎の誤りを正す・附 司馬遼太郎氏を偲ぶ」とある。司馬遼太郎の名作「坂の上の雲」では、乃木希典の軍事的無能を描いてあるが、本書を読めば「司馬氏の著述が如何に事実を誤解し、偏見独断に満ち満ちたものであるかを、容易に了解されるものと確信する」とある。司馬遼太郎が生前、「坂の上の雲」のテレビ化に諾と言わなかったのも記述の誤りによって人を迷惑をかけると感じたからだという。

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以下、本日のNHKの映像から。

  秋山真之


  秋山好古


  正岡子規


児玉源太郎大山巌


  山本権兵衛


  東郷平八郎


 本日天気晴朗なれども波高し


  三笠艦上の東郷と幕僚