『川喜多かし子 映画ひとすじに』ーー「私の強みはだれよりも多く世界中の作品を見ていることである。

『川喜多かし子 映画ひとすじに』(人間の記録34。日本図書センター)を読了。

川喜多長政1903年生まれ)は、府中四中、北京大学を経て、東ドイツに留学。東洋と西洋の和合を目指し東和商事を設立し、ヨーロッパ映画の輸入を始める。この会社が東宝・東和になり社長、会長を歴任する。
妻の川喜多かしこ(1908年生まれ)は、「制服の処女」で大ヒットを飛ばし、以後「会議は踊る」「巴里祭」「天井桟敷の人々」などを日本に紹介する。日本映画を海外に紹介することにも尽力する。「羅生門ベネチア国際映画祭で金獅子賞をとった。映画祭の審査員は26回に及んでいる。
この夫婦は、夫は勲二等、妻は勲三等と勲章をもらっている。

川喜多かしこ

  • 仮死状態で生まれたから「かし」、それに女の子だから「こ」をつけた。
  • 長政の「東和商事」とは、東洋平和という意味であり、日本と中国は争うべきでないという主張。それを映画で実現しようとした。娘の名前も「和子」としたのも同じ理由。
  • 優れた外国映画を日本に紹介すること。優れた日本映画を外国に紹介すること。
  • 「君とわれ若く雄々しく強ければ いく山河もえみて越えなむ」
  • 「よい作品を選び出して悪い作品を捨てる」。
  • 国際映画祭こそ日本映画を海外に紹介する最上の場所だということを深く悟った。

「私の強みはだれよりも多く世界中の作品を見ていることである。それと黒沢や溝口を生み出した日本の映画界を背景に持っていることである」。

尊敬する夫の仕事の意義を高く評価し、それがたまたま自分の関心分野だったという幸運を活用し、献身的に仕え、独特で強力な文化的背景をバックに持ち、そして誰よりも現場を踏んで成長していった人だである。偶然と幸運、「運と縁」に恵まれた人だ。

ーーーーーーーーーーー

朝はヨガを1時間。今日はメンバーは2人だったのでこってり絞られた。

夜:NHKテレビ70年記念ドラマ「大河ドラマが生まれた日」を面白くみた。「大河ドラマ」の初回の「花の生涯」をめぐる裏方の物語。この作品は私はよく覚えている。1963年の放映ということは、私は中学2年生だ。父と母と3人で、佐田啓二淡島千景の演技とセリフ、そして父の感想をまだ覚えている。何ごとも最初にやるのは大変だ。テレビ界のプロジェクトXといったところ。

ーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」2月4日。秋山真之「人間の頭に上下などない。要点をつかむという能力と、不要不急のものは切り捨てるという大胆さだけが問題だ」。

秋山 真之(あきやま さねゆき、旧字体秋山 眞之1868年4月12日慶応4年3月20日〉 - 1918年大正7年〉2月4日)は、日本海軍軍人

秋山真之日露戦争日本海海戦バルチック艦隊を破った天才参謀で、私のビジネスマン時代のモデルでもあった。2月4日は秋山真之の没した日。

ビジネスマン時代には司令官型よりも参謀型を目指していた私は、日本海海戦の作戦参謀・秋山真之をモデルに仕事に励んでいた。客室本部という大きな部隊の参謀時代は、常に自分の組織を海軍に見立てて、秋山の作戦立案や海軍の人事制度などを研究したものだ。

秋山は「一日怠ければ日本が一日遅れる」と言った。こういう心情は明治の志のある青年たちに共通のものであった。学問、医学、音楽、写真、文学、、などあらゆる分野でそうであった。

秋山真之は松山出身で、正岡子規とは幼馴染みであった。最終的に進むべき道は異なったが、どちらも時代の落とし子だったのだ。

大事なのは、末ではなく、本である。枝葉末節の細かな点の確認より、要点、本質をつかむことが、課題解決へ向けての真っ直ぐな道だ。その道を歩むためには余計なことには心を煩わせないようにしたい。日本を救った秋山のこの言葉には深く納得する。

以上は、2016年に書いた文章だ。以下、補足する。

秋山真之といえば、司馬遼太郎坂の上の雲』の主人公の一人として、なじみがある存在である。1897年に29歳でワシントンの公使館付留学生。1898年の米西戦争を観戦。1900年パリ万博を訪問したとき、「日本のインテリは狭い意味での小専門家」と仲間に語っている。1894年の日清戦争勝利後に中国に進出する日本と、南北戦争(1861-1865年)米西戦争で勝利しアジアに展開するアメリカとの出会いという時代であった。 秋山の時代は個人と組織と国家が一直線の、ある意味幸せな時代だった。それを秋山は「私が一日怠ければ日本が一日遅れる」と表現している。

児島襄『参謀』(上)は、第二次大戦中の日本陸海軍の参謀15人を取り上げた名著だ。 40代半ばまで勤めていた企業の参謀を志していた私は、日露戦争開戦の秋山参謀をモデルに励んでおり、この本も熟読していた。

日本海海戦時の「皇国ノ興廃コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」という指令の起草は秋山参謀である。

日露戦争に勝利し、連合艦隊を解散し、平時編成に戻すことになった。その際に連合艦隊解散の辞として東郷平八郎が読み上げた訓示は、バルチック艦隊を破った名参謀秋山真之の起草した歴史的名文である。「、、、神は平素ひたすら鍛錬につとめ、戦う前に既に戦勝を約束された者に、勝利の栄冠を授けると共に、一勝に満足し、太平に安閑としている者からは、ただちにその栄冠を取上げてしまうであろう。昔のことわざにも「勝って兜の緒を締めよ」とある。1905年12月21日 連合艦隊司令長官 東郷平八郎」。感動した時の米大統領セオドア・ルーズベルトは、全文英訳させて、米国海軍に頒布している。

自分の研鑽が一日遅れればその分国家の進みが一日遅れる。幕末から明治にかけての青年たちのこういう気概が明治国家を形づくった。日露戦争海軍参謀の秋山真之しかり、その他あらゆる分野で自分が一日怠ければ日本が遅れるとの決意で研鑽をした青年たちが短期間で近代化を成し遂げた。その原形は、松下村塾で青年たちを鼓舞した吉田松陰を少年期に訓育した玉木文之進「一日勉学を怠れば国家(藩)の武は一日遅れることになる」という言葉にあった。江戸時代の国家は「藩」であり、明治は「日本」である。日露戦争でもし日本が破れていたら、日本の近代はまったく違った姿になっていただろう。この薄氷を踏む抜かずに、奇跡的に日本は乗り切った。軍事という面で、国家存亡の危機を救ったという意味で、秋山は近代日本を形作った恩人の一人である。

秋山は古今東西のあらゆる戦争を研究し、戦法、戦術を抽出し勝利の方程式を編み出した。それを使って歴史的な勝利をもたらした天才だと言われている。その秘密は「人間の頭に上下などない。要点をつかむという能力と、不要不急のものは切り捨てるという大胆さだけが問題だ」という考え方にあると思う。大きく全体をにらみ、細微にこだわらず大胆に要点のみに着目する。そして個々の戦争をひっくるめた戦史と、勝敗を分けた戦法の優劣とそれらの関係をつかもうとしたのだ。つまり、「構造と関係」という視点で戦史を研究し、独自の法則を発見し、それを現実の戦争に適用したのだと思う。この人の頭には大きな図があり、そしてそれを見事に表現できる文才が備わっていたのだ。