司馬遼太郎の素顔ーー『街道をゆく』を聴き、『街道をついてゆく--司馬遼太郎番の六年間』を読む。

ユーチューブで司馬遼太郎街道をゆく』を聴いています。

街道をゆく 全43巻セット

「北のまほろば」「長州路。肥薩のみち」「本郷界隈」「奥州白河・会津のみち」など。司馬遼太郎が訪ねた足跡を追うという番組の動画で、会った人が当時の司馬を語り、途中で本文の朗読が入る。散歩のときなどに続けて聴くことにし、日本再発見をしてみたい。

街道をゆく』は1971年から週刊朝日で連載がはじまり、亡くなる1996年までほとんど休みなく続いた。47才から亡くなるまで25年間、毎週16枚の連載で、文庫本は43冊になった。このシリーズは「坂の上の雲」「竜馬がゆく」「翔ぶがごとく」につぐ第4位の売れ行きで、累計では軽く1000万部を越えている。私が読んだことのあるのは、「豊後・日田街道」「秋田県散歩「台湾紀行」「モンゴル紀行」「中津・宇佐の道」など。

「街道はなるほど空間的存在ではあるが、しかしひるがえって考えてみれば、それは決定的に時間的存在であって、私の乗っている車は、過去というぼう大な時間の世界へ旅立っているのである」

25年続いた「街道をゆく」シリーズ本の編集者は25年間で5人いる。最後の編集者村井重俊には『街道をついてゆく--司馬遼太郎番の六年間』(朝日文庫)という本があり、読んだことがある。このタイトルも面白い。この本では国民作家・司馬遼太郎の人間味が描かれている。村井による司馬遼太郎観察である。司馬遼太郎の素顔がわかり、実に面白い。

・司馬さんは意外にわがままなのだ。・司馬さんの原稿は万年筆で書かれるが、赤や青、緑色のマジック、ボールペン、色えんぴつなどで推敲を重ねる。・司馬さんのはなしはいつもわかりやすかった。リアリティがあり、ユーモラスで、聞いていると心が拡がるような、明るさがあった。・司馬さんは土木が好きなようだった。・必ずなるよ。(「日本は本当にだめになるんでしょうか」)・司馬さんは意外に料理ができた。・68才の司馬さんは、書生としての基本姿勢を大切にしていた。・夫妻は毎日、散歩する習慣がある。・遺跡をたずね、遺物をスケッチし、写真を撮り、野村さんの話を小さなノートにまおとめていく。 ・カニアレルギー・大きな旅の場合、司馬さんは事前にノートをつくる。、、「資料を集めたり、調べるぐらいおもしろいことはない。(KOKUYOのCampus)・「七度になると寝込み、八度以上になれば、ちょっと照れくさいが---遺言を考える」・偏食の司馬夫妻(カニ、鶏は食べない)・「、、雅子さん、日記をつければいいと思うな。貴重な資料になりますよ」(皇太子妃)・この辺りの粘りが、司馬さん独特のものでもあった。ただの世間話が『街道をゆく』の一章にまでなっていく。・「高校三年生」もそうだし、「朧月夜」も知らないようだったのには驚きましたね」(挿絵を描いた安野光雅)・「ひょっとしたら性癖かもしれない。、、、ここは元はなんだろうということが気になってしまう」・「大阪外語に行っているときは、外務省の下級の役人になって、どこか辺境の領事館に勤めたいと思っていたね。そして三十になったら小説を書きましょうと」。・司馬さんは相撲ファンではあった。ひいきは断然、旭富士たっだ。・旧弘前高校を受験し失敗している。「自分の成績だと、弘前と高知が狙い目だと思ったんだな。高知はなんとなく野蛮そうなので、弘前にしました」。・相当の負けず嫌いなのだ。司馬さんは宮崎アニメの大ファンだった。・・アレルギー性鼻炎に加え、座骨神経痛にも苦しんでいた。・旅に出る前、いつも司馬さんは背筋をのばした。「さあ、行きましょうか」。

最後に司馬遼太郎のメッセージを記す。

「日本は再び敗戦を迎えた」「戦後の日本の繁栄は終わったと思った方がいい。これからは大国などとはいわず、世界の片隅で日本という国がひっそりと暮らせていけばいいんです」「あとはよき停滞、美しき停滞をできるかどうか。これを民族の能力をかけてやらなければ生けないんです」「ちゃんとした人間が上に立てば、なんとかなるんです」

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目黒の「果樹園リーベル」で、下田から上京した鈴木太夢さん、橘川さん。桜井さんと会う。鈴木ジャンボは富士箱根伊豆国際学会の事務局長で、私と橘川さんは学会のアドバイザーを仰せつかっています。「地域DNA」について、所見を述べました。『静岡の時代』(日本地域社会研究所)を渡し、この現代版もいいのではないかとアドバイス

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往復の電車の中で今日のノルマの『加賀乙彦 自伝』(集英社)を読了。

NHKアーカイブス臼井吉見のインタビューを聴く。ライフワーク『安曇野』について興味が湧いた。新宿中村屋を中心に、東京と長野県安曇野を舞台にした物語だ。相馬愛蔵・黒光夫妻、木下尚江、荻原守衛、井口喜源治らが登場するというから、今の私が読むと面白いだろうな。

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「名言との対話」4月21日。加賀乙彦「私は『永遠の都』『雲の都』を書くために作家になったような気がします」

加賀 乙彦(かが おとひこ、1929年4月22日 - )は、日本小説家医学者犯罪心理学)、精神科医

本業は医者であった。東京大学医学部助手東京大学医学部脳研究所助手、東京拘置所医務部技官パリ大学サンタンヌ病院医師、北仏サンヴナン病院医師、東京大学医学部附属病院精神科助手、東京医科歯科大学医学部助教授上智大学文学部教授などを歴任した。

1979年から文筆に専念。同年に『宣告』で日本文学大賞受賞。1986年に『湿原』で大佛次郎賞受賞。1987年クリスマス(58歳)に遠藤周作の影響でカトリック洗礼を受ける。1998年に『永遠の都』で第48回芸術選奨文部大臣賞受賞。2000年日本芸術院会員。2005年旭日中綬章受章[3]2011年文化功労者2012年、『雲の都』(全5巻完結)により毎日出版文化賞特別賞を受賞。最後は小説家として過ごしている。

加賀乙彦 自伝』(集英社)を読んだ。

40代は『宣告』に全部使い、人生を賭けた。準備期間3年、執筆は7年だ。それがベストセラーになった。50代前半は多産な時期を過ごす。

50代後半からあしかけ26年という歳月を使ってライフワークを完成させている。東京を主人公とした『永遠の都』を12年かかって終わったときに、ドナルド・キーンが「20世紀の日本について書くべき小説はまだ書かれていない」と記していたのを見て、発奮し、12年かけて戦後を描く『雲の都』を書いた。あわせて9000枚という大作となったライフワークだ。『戦争と平和』の翻訳が3500枚というから相当に長い作品だ。年譜をみると、56歳から68歳、71歳から83歳が二つの作品を書いた年代だ。「私は『永遠の都』『雲の都』を書くために作家になったような気がします」と感慨を述べている。その後は『ペトロ岐部』を完成させて、自分の文学を完成させた。

長編小説を書くコツについて述べているのが参考になる。複雑に曲折する構成、個性の書き分け、人物の意識のなかに入り込む。自分の体験、芸術論(音楽論、文学論、歴史論、宗教論など)をそっと書き入れる。ブログやこの「名言との対話」も、長編になってきたから、そういうことをより強く意識することにしよう。

刑務所の如何の時代に、死刑囚全員に会おうとした。死刑囚と無期懲役囚はまったく違う人生を送る。死刑囚には明日死ぬかもしれないという意識で濃密な時間が流れている。無期囚には人生の時間を薄く引き伸ばしたようになり退屈しないように鈍感になる。加賀本人は、生まれるべきときに生まれ、死すべきときに死すという道理にしたがうまでのことだ。死生一如である。人間は生まれながらの死刑囚というパスカルの言葉も記している。必ず死ぬから生きている間は濃密な時間を過ごそうという気になるのであって、永遠に生きなければならないとなれば、無期懲役の囚人の心境になるだろうと私も共感する。やはり、人生には期限があるから面白いのだ。

フランス留学の船の中で知り合った辻邦生。「甘えの構造」というタイトルに貢献した土居健郎臼井吉見。小説は悪魔だという埴谷雄高などとの交流の記述も興味深い。

東京医科歯科大学医学部犯罪心理学研究室から、上智大学文学部教育学科へ移った。精神医学者と心理学者が一緒に臨床心理学をつくろうとしていた時期で、両分野の橋渡しができる人でもあった。

1929年からの昭和初期からから始まる加賀乙彦の人生は、奇妙な戦争と平和、自然の大災害と原発災害の時代だったという総括をしている。

四半世紀の時間を使った『永遠の都』『雲の都』を書くために作家になった気がするとは、ライフワークを完成した人のみが言える境地だろう。さて、自分はどうだろう。

加賀乙彦 自伝 (ホーム社)