「パール判事の日本無罪論」(田中正明)を一気に読了。
極東国際軍事裁判(東京裁判)において11人の判事の中でただ一人全員無罪を主張したインドのパール判事の理念について書かれた書物である。
連合国によって公表を禁止されていたパール判決文の翻訳作業を秘密裏に続けサンフランシスコ平和条約によって日本の主権が回復した日に刊行された大ベストセラー「真理の裁き・パール日本無罪論」が源になっている。1963年の「パール博士の日本無罪論」を文庫本として2000年に文庫本として再刊したものである。
- 作者: 田中正明
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2001/10
- メディア: 文庫
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第1部「予備的法律問題」。裁判官の構成が戦勝国のみの判事であり不公正。東京裁判は国際法にのっとっていない。マッカーサーがつくった裁判所条例に基づいての裁判であるが、その条例には法的価値はない。ポツダム宣言の範囲と逸脱した管轄。敗戦国にも主権はある。侵略戦争の定義はない。戦争は犯罪ではない。責任は国家がとるべきであり個人には及ばない。
第2部「侵略戦争とは何か」。侵略戦争と自衛戦争の区別は難しい。日中戦争で米英は中立を守らなかった。対日経済制裁によって日本は立ちあがらざるを得なかった。太平洋戦争は日本の一方的侵略ではない。
第3部『証拠及び手続に関する規則」。膨大な証拠は公正な手続きによって受理されたものではない。証拠として価値あるものではない。
第4部「全面的共同謀議」。内閣が何度も(14度)交代した日本の政情から検察側の共同謀議を全面的に否定し妄想としている。
第5部「裁判の管轄権」。ポツダム宣言での戦争には太平洋戦争を指しており、満州事変やノモンハン事件は含まれていない。事後的に管轄権を拡大するのは不法である。
第6部「厳密なる意味における戦争犯罪」。被告たちは非道(俘虜の虐待・大量の非戦闘員の殺戮・放火・略奪)を部下に命じた者たちではない。この意味でこの裁判は無効である。トルーマン大統領が投下を命じた原爆こそ、人道の名において裁かれるべきである。
第7部「勧告」。東京裁判は復讐であり、占領政策の宣伝効果をねらった政治行為である。このような裁判を行ったことは文明の恥辱である。
後に、関係者や識者が東京裁判を次のように反省と論評している。
- マッカーサー「彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです」(1951年。米国上院軍事外交合同委員会)
- フーバー大統領「もしわれわれが日本人を挑発しなかったならば決して日本人から攻撃を受ける様なことはなかったであろう。
- ライシャワー「軍事法廷はかく裁いた。だが歴史は、それとは異なる裁きを下すだろうことは明らかである。
- プライス「原告アメリカが、明らかに責任があるからである。ソ連は日ソ中立条約を破って参戦したが、これはスターリンだけの責任でなく、戦後に千島、樺太を譲ることを条件として、日本攻撃を依頼し、これを共同謀議したもので、、、」
- ヤスパース「一つの民族だけが、戦争の責罪を負わなければならない義務はないと思う」
東京裁判史観を覆す一書である。
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パールの意見書に接し、裁かれた被告が歌を遺している。「ふみ」はパール判決書のこと。
東條英機 「百年の 後の世かとぞ 思いしに 今このふみを 眼のあたりに見る」
板垣征四郎 「ふたとせに あまるさばきの 庭のうち このひとふみを 見るぞとうとき」
「すぐれたる 人のふみ見て 思うかな やみ夜を照らす ともしびのごと」
木村兵太郎 「闇の夜を 照らすひかりの ふみ仰ぎ こころ安けく 逝くぞうれ志き」
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パール判事の一生。
1886年生れ。3歳にして父を失い、その後の全修学過程を通じて経済的に苦難の道を歩んだ。19歳、日本がロシアを破ったことに感動し、インド独立を考えるようになる。数学を専攻し、さらに法科へと進む。会計院に就職する傍ら法律を勉強し法学士となる。この頃ある大学の数学教授として招聘される。1920年に法学修士、1924年に法学博士へと進む。1923年、カルカッタ大学法学部教授、1941年カルカッタ高等法院判事、1944年カルカッタ大学総長、1946年、ネール首相から極東軍事裁判のインド代表に押される。1960年、インドの再考栄誉勲章を受賞、ジュネーブの国連司法委員会議長、世界連邦カルカッタ協会会長に就任。1967年逝去。
1966年、来日時に昭和天皇から勲一等瑞宝章を授与された。
京都東山の霊山護国神社にもパール博士顕彰碑が1997年に建立されている。2005年には靖国神社には終戦60周年を記念してパール博士顕彰碑が建立されている。
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本日のスイミングは500メートル。