箱根富士屋ホテルのAtmosphereを作った山口正造

箱根富士屋ホテルは、創業以来今年で135年を迎えた。
今では全国に17(2002年現在)のホテルをもつリゾートホテルの一大チェーンとなった。
一口に135年というが、とても長い時間である。このホテルは1878年の創業から国際興業小佐野賢治の手に渡る1966年までの3人の優れた経営者によって築かれてきた。その物語を読んだ。山口由美「箱根富士屋ホテル物語」である。筆者の山口由美は創業者山口仙之助の曾孫にあたる。

箱根富士屋ホテル物語

箱根富士屋ホテル物語

創業した山口仙之助(1851-1915年)は、明治時代に外国人向けのホテルを興し日本近代化の一翼を担った。福沢諭吉の影響を受けて新しい産業であるホテル創業に力を注いだ。慶応義塾出身名流列伝によれば「旅館又はホテルとして、岩崎弥之助古川市兵衛等を謝絶せるもの、富士屋ホテルをおいて他にあらざるべし。主人山口仙之助氏はこれらの名士の来宿を断然謝絶したる好漢にして、金銭の前に頭を下げることを欲せず。剛直一徹の奇士なり」とある。

実質的な二代目・山口正造(1882-1944年)は、日光の金谷ホテルの次男で仙之助の長女孝子の婿養子であるが、富士屋ホテルを大発展させる。

三代目の山口堅吉は、富士屋を守り未来へと継承することに生涯を捧げた。

3人の写真を箱根富士屋ホテルのホテルミュージアムで見たが、その時立派な髭を生やした正造という人物に興味を持った。

17歳の時にアメリカに渡る決心をし、徒手空拳でサンフランシスコ、バンクーバー、ロンドンと移りながら、次第に頭角を現し、ロンドン市内に柔道学校を開校し、名声を得るまでになった。1907年8年に及ぶ外国生活を終えて帰国。25歳の時に富士屋ホテルに入る。

温室の設置から始まり、富士屋自動車株式会社の設立、房、厨房、冷蔵庫、など近代ホテルとしてのバックアップ部門の地固めを行う。そして「建築道楽」と言われるように個性的な建物を次々と創っていく。正造は一時期だが、ライトが建てた帝国ホテルの支配人をやってもいる。関東大震災による大打撃、妻との離婚を乗り越え、ホテルマンの育成のための富士屋ホテルトレーニングスクールも設置するなど先見の明があった。

野田一夫先生が初代の学科長をつとめた立教大学観光学科は、正造の一周忌を記念して集めた寄付を基に設立されたことも初めて知った。

正造の写真と銅像をみると、まことに立派な髭を蓄えている。60-70センチという記録がある。万国髭倶楽部を思いついて10カ国43名のメンバーが登録した。「お客様に覚えて貰いやすいようにすることが必要だ。その為には、ヒゲは最もよい目標となる」、これも商売の一部だったのだ。
富士ビューホテル、日本で二番目に古い仙石原ゴルフ場なども新しいもの好きの正造の仕事である。

独身であった正造は1944年に脳溢血で61歳の生涯を閉じる。亡くなる3ヵ月前に取締役社長に就任している。それまではずっと専務のままだったのだ。
「司にと祭り上げらる我身にも 秋来にけりと見ゆる今朝かな」。
「僕は30何年かかって、ここに一つのAtmosphereをつくったのである。これは、誰にも真似できない」と語っている。その雰囲気は今なお生きていることを先日の訪問で感じた。

富士屋ホテルは、その後、仙之助の次女貞子の婿養子となった堅吉が継ぐ。堅吉は早稲田を出て日本郵船の外交航路の客船のパーサーだった。敗戦によって進駐軍に接収された後も、発展を続けた。