6月には、鹿児島・久留米・福岡の旅と、中津・小倉・津和野・益田の旅という二つの旅をした。コロナ禍に入ったあたりから初めて、多くの人物記念館を訪ねることができた。今まで手薄だった、鹿児島県、山陰地方がターゲットとした旅は収穫が多かった。
島津斉彬https://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2022/06/10/000000
照国文庫資料館https://terukunijinja.jp/museum/
海音寺潮五郎 https://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2022/06/23/000000
鹿児島県立図書館海音寺潮五郎コーナーhttps://www.library.pref.kagoshima.jp/honkan/p609
西郷隆盛https://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2022/06/21/000000
西郷南洲顕彰館http://saigou.jp/
稲盛和夫https://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2022/06/25/000000
鹿児島大学稲盛記念館https://www.kagoshima-u.ac.jp/education/kinenkan.html
鹿児島県日置市
沈寿官https://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2022/06/11/000000
沈寿官窯http://www.chin-jukan.co.jp/
東郷茂徳https://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2022/06/11/000000
元外相東郷茂徳記念館https://www.city.hioki.kagoshima.jp/kanko/kankou/kanko-map/osusume/togoshigenorikinenkan.htm
福岡県久留米市
石橋正二郎https://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2022/06/18/000000
石橋正二郎記念館https://www.ishibashi-bunka.jp/kinenkan/
坂本繁二郎https://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2022/06/19/000000
坂本繁二郎生家https://www.city.kurume.fukuoka.jp/1080kankou/2015bunkazai/3040hanjirou/2012-0131-1103-551.html
青木繁https://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2022/06/19/000000
青木繁旧居https://www.city.kurume.fukuoka.jp/1080kankou/2010bunka/3030bunkahall/2010-0412-1540-239.html
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北九州市小倉区
松本清張https://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2022/06/28/000000
松本清張記念館https://www.seicho-mm.jp/
島根県津和野町
安野光雅https://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2022/06/28/000000
安野光雅美術館https://www.town.tsuwano.lg.jp/anbi/anbi.html
桑原史成https://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2022/06/28/000000
桑原史成写真美術館https://www.town.tsuwano.lg.jp/kuwabara_photo/
森鴎外https://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2022/06/30/053030
森鴎外記念館https://www.all-iwami.com/spot/detail_1050.html
西周https://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2022/06/30/053030
西周旧居https://tsuwano-bunka.net/cultural-property/detail_nishi/
島根県益田町
雪舟https://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2022/06/30/000000
雪舟の郷記念館http://www.iwami.or.jp/sessyu3/
柿本人麻呂https://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2022/06/30/000000
柿本神社高津柿本神社 | 島根県益田市観光公式サイト (masudashi.com)
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「名言との対話」清瀬一郎「東京裁判は、本来復讐が目的であった」
清瀬 一郎(きよせ いちろう、1884年〈明治17年〉7月5日 - 1967年〈昭和42年〉6月27日)は大正、昭和時代の日本の弁護士、法学者、政治家。
京都帝国大学独法科卒業後、弁護士として活躍。特に工業所有権分野では第一人者となる。1920年、衆議院議員に当選。五・一五事件の被告弁護人。第二次世界大戦中は大政翼賛会総務などを歴任。
戦後に公職追放。極東国際軍事裁判の日本人弁護団副団長で、東條英機元首相の主任弁護人をつとめた。追放解除後政界に復帰。改進党幹事長などを歴任し、1955年に第三次鳩山一郎内閣の文部大臣に就任。党籍離脱を行った衆議院議長として1960年の新安保条約の審議で強行採決を行った。著書に『秘録・東京裁判』などがある。
東京裁判については、「本来復讐が目的である」と明言している。ヒトラーが自殺し、国土が蹂躙されたドイツが無条件降伏であったのに対し、日本は本土は維持しており、皇室の存続問題などの条件を付しており、条件付き降伏であったと説明し、「平和への罪」という法理論の間違いを指摘し、ニュールンベルク裁判を踏襲しようとした連合国側に反論している。後にマッカーサーも「東京裁判は失敗であった」とアメリカ上院の委員会で証言している。清瀬は東京裁判は司法のあるべき姿ではないが、戦勝国連合の復讐裁判という目的は達しただろうと冷静に判断している。
評判の悪かった東條英機は弁護人に引き受け手がなく、弁護団副団長だった清瀬自ら主任弁護人を引き受けた。『秘録』には裁判進行中の細かいやり取りや、A級戦犯となった被告たちの様々のエピソードが記載されており、実に興味深い。東條英機の遺書の最後には「東亜の他民族の協力を得ることができなかったことが、今日の敗戦の原因であると考える」との記述があった。米ソの第三次世界大戦は避けられないとして、極東が戦場となるの警告もある。
清斉一郎は1960年の新安保法の審議にあたり、国会の会期延長を強行採決したときの議長であり、条約の批准案を可決させている。私は中学生時代だったか、清瀬一郎衆衆議院議長の「衆議院を解散する」というテレビの声を記憶しているので、親近感があった。
東京裁判については、11人に判事中ただ一人のパール判事の全員無罪論。 、小堀桂一郎(東大名誉教授)編の『東京裁判 日本の弁明』(講談社学術文庫・1995年発行)。日本・中国・韓国の歴史教科書における東京裁判の評価の図解化などで、資料を読み込んできたが、弁護団副団長という当事者の述懐で、この裁判の実体がよくみえた感じがする。清瀬一郎の「東京裁判は、本来復讐が目的であった」という断定は重い。