倉紡記念館--大原孝四郎・大原孫三郎・大原総一郎

倉紡記念館。
倉敷は河岸に倉庫が立ち並ぶ町で、蔵屋敷、蔵敷地などと呼ばれていた。それが蔵敷となり、いつの間にか「倉敷」となった。
徳川時代は幕府直轄の天領だった。ここを治めた代官所跡に倉敷紡績ができた。それが近代の発展の原動力になった。

昭和42年の創業80周年記念事業でつうられた倉敷紡績の歴史記念館。
紡績の歴史は薩摩藩の鹿児島紡績所から始まる。
明治21年には涌現責任・倉敷紡績所が誕生する。頭取は村の資産家であった大原孝四郎(1833-1910)。

大原を担ぎ出したのが、大橋澤三郎、小松原慶太郎、木村利太郎という3人の青年だった。
明治26年に倉敷紡績株式会社。
大原家の家訓が「謙受の精神」で、一番に迫る希望に満ちた二・三番の謙虚な気持ちと不断の努力を続けたいとの気持ちを表したものである。その精神を表したシンボル・マークがある。
昭和26年の法人売上表をみると、1位鐘紡、2位東洋紡となっており、倉敷紡績は12位となっていて、謙受の精神のままである。

明治34年に大原孫三郎(1880-1943年)が入社する、孫三郎は孝四郎の次男。39年には二代目社長に就任。

「従業員の幸福なくして事業の繫栄はない」という労働理想主義を掲げ、敷地内に小学校や工手学校などの学校をつくるなどユニークな労務管理を行い、飛躍発展した。孫三郎は、人道主義、人格主義、キリスト教社会主義社会改良主義と、その思想は移行していく。
大原社会問題研究所は高い業績をあげた。現在は法政大学に移って存続している。
倉敷労働科学研究所は、(財)労働科学研究所となっている。
孫三郎は、1万人の従業員のために倉敷中央病院、倉敷高松病院、倉敷販売利用組合、若竹の園などもつくった。最盛期には1200人を擁した岡山孤児院をつくった石井十次(1865年生)と親交を持った。倉敷中央病院は、治療本位の設計、明るい病院、東洋一の病院という考え方で造られ、開所式には後藤新平が来て祝辞を述べている。

三代目社長は大原総一郎(1909年生)で、孫三郎の長男。

日本民芸教会会長、大原美術館の充実拡大、倉敷民芸館の設立などが、本業以外の業績である。

現在のクラボウ(創業100年に変更)は、資本金220億円。繊維、化成品、不動産活用、工作機械、エレクトロニクス、食品、など業容は拡大している。また中国、インドネシア、台湾、アメリカ、ブラジル、タイ、バングラデシュなどの海外拠点を持つなど、グローバルに展開している。

日本の紡績業の初めから、明治21年の倉敷紡績の創業から平成の現在までの見事な企業歴史博物館だ。

今日も岡山知研の伊藤さんにお世話になった。

「名言の暦」11月2日
命日

  • 平田篤胤1843
    • 学問は本末を知ることが大事でgざる。
    • 上見れば 及ばぬことの 多かれど笠脱ぎてみよ 及ぶ限りを
  • 北原白秋1942::
  • バーナード・ショー1950
    • 有能なものは行動し、無能なものは講釈する。
    • できる者は行う。できない者が教える。
    • 歳をとったから遊ばなくなるのではない。遊ばなくなるから歳をとるのだ。
  • 徳富蘇峰1957
    • 人に百歳の寿なく、社会に千載の命なし。
    • 人生は一種の苦役なり。ただ不愉快に服役するのと欣然として服役するとの相違あるのみ。

生誕

  • 良寛1785
    • 災難に逢った時は災難に逢うのがよいのでしょう。死ぬ時には死ぬのがよいのでしょう。これは災難を逃れる妙法です。
    • 裏を見せ表を見せて散る紅葉かな
  • 横山大観1868
    • 良い絵とは、ああっと言うだけで、ものが言えなくなるような絵だ。どうだこうだと言える様な絵、言いたくなる様な絵は大した絵ではない
    • 人間ができてはじめて絵ができる