「知研・読書会」の第1回目を開催ーー「センス・オブ・ワンダー」「東京落語地図」「80歳の壁」「大原孫三郎の生涯」「アインシュタイン、神を語る」「原点」「文藝春秋 創刊号」

「知研・読書会」の第1回目を開催。10人が参加。

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以下、参加者が取り上げた本。

 

 

 

 

 

 

以下、参加者から。

  • 本日、読書会「素敵な本を紹介しよう!」を終えました。参加してくださった皆様、Zoom設定などご協力くださった力丸さん、どうもありがとうございました。期待通り、参加された方々からいろいろなジャンルの、すてきな本が紹介され、自分の知らなかった世界にも目を向けることができました。文藝春秋の創刊号のように貴重な資料もありました。次の本が紹介されました。レイチェル・カーソン(上遠恵子訳)『センス・オブ・ワンダー城山三郎『わしの眼は十年先が見える 大原孫三郎の生涯』ウイルマン・ヘルマンス『アインシュタイン 神を語る』ほかアインシュタインからみた科学・宗教・政治に関する5冊。安彦良和×斎藤光政『原点』文藝春秋創刊号。好評でしたので、また来月も開催したいと思います。
  • 本日は、知研読書会に参加させていただき、ありがとうございました。普段、読む機会がないようなさまざまな分野の本を、知る事ができ、興味の幅が広がり、楽しく参加させていただきました。紹介された本も、本を紹介された方が、今、実際に取り組まれていたり、つながりのある人が著者であったりし、本に書かれていない内容も聞く事ができ、とてもわくわくする時間を過ごしました。また、フリートークの時間では、気さくな雰囲気で、自由に気兼ねなく意見や感想が言えて、とても楽しく時間があっと言う間に過ぎた感じがしました。また、次回参加したいと思っていますのでよろしくお願いいたします。本日は、ありがとうございました。
  • 7月22日実施の知研読書会は、非常に面白かった。各人が何に関心を持っているか、どのように感じているか良く理解出来ました。伊藤さんの80歳の壁は現在の私の状況に大いに参考になると思いました。早速、読んで見ます。久恒先生の文芸春秋の創刊時の話は面白かった。菊池寛を始め、当時の著作家の人間味溢れる一面を紹介頂き、認識を新たにしました。都築さん、松本さんは恐らく、共感を覚えた尊敬する人の著作だろうと感じました。小野さんから学生時代の友人の漫画家安彦良和さんの原点という著作を紹介いただき、波瀾万丈な人生を送った人の原点を知りたくなりました。深谷さんの落語地図も落語への興味をかき立てそうです。若い鈴木さん、三沢さん、若い人達がどのように感じ、思っているのか、興味があり、是非、友人の方をお誘い頂き、次回もご参加願います。
  • 本日はオンラインイベント「素敵な本を紹介しよう」に参加させていただき、ありがとうございました。自分の読んだお気に入りの本を5分づつ紹介するという「読書会」で、大変興味深く、面白い会でした。普段は、書店に行っても、自分の興味のある本しか手にすることはなく、また、「あなたへのおススメ本」などに案内され、どうしても限られた分野の本しか目にしていないと感じます。今日は、レイチェル・カーソン和田秀樹アインシュタイン、大原孫三郎、安彦良和菊池寛などに触れる機会となり、新鮮でした。私からは「東京落語地図」(佐藤光房著)を紹介させていただきました。古典落語のあらすじと、ゆかりの場所、付随する話が書かれている本で、「『文学散歩』があるのだから『落語散歩』もあっていいだろう」という著者の言葉に感じ入り、紹介させていただきました。読書会は月1回開催とのこと。来月も楽しみにしています。
     
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    「名言との対話」7月22日。田中一村「死んだ後50年から100年後に認めてくれる人があればそれでいい」
    田中 一村(たなか いっそん、1908年7月22日 - 1977年9月11日)は、日本画家。

    南日本新聞社編『日本のゴーギャン 田中一村伝』を読んだ。

    田中の人生は4歳から29歳までの東京での生活。30歳から50歳までの千葉での生活。50歳から亡くなる69歳までの奄美生活と3期に分けられる。

    東京芝中学では卒業式の答辞を読むなど抜群の成績であった。入学した美術学校ではわずか3ヶ月で中退している。理由は結核にかかったことと家庭の貧窮のためであった。当時の美術学校は教師として、河合玉堂、松岡瑛丘等の人物が揃っていた。同期生にも人材が多く、東山魁夷もいた。

    田中は剛直、寡黙沈着、自由奔放の性格であった。この天才児はすでに南画の領域に達した、と言われていた。しかし田中は生活の安定のための絵を選ばなかった。日本画の本道に立とうとしたのである。つまり売るための絵を描くことを潔しとしなかった。

    29歳で千葉に移る。6畳2間と10畳のアトリエに家族4人で住んでいる。農業を営みながら、絵についても勤勉な生活を行っている。

    田中は川端龍子が取り仕切っている青龍展に入ることになった。このあたりで米邨という雅号から「柳一村」に変えている。心機一転で「白い花」を描き公募展の初入選をしている。田中の入選は生涯これだけであった。このとき同時に東山魁夷は「残照」で日展の特別賞を受賞をしていた。一時、師と仰いだ川端龍子とは喧嘩別れとなる。その後院展日展に応募するが落選を続けている。

    「世界一の絵を描きこそ必要なのだ」「一日かかないと眠れないない」

    頼まれて絵を描くと、途中で緊張が途切れてなかなか元の水準に戻らないと語っていた。パンのために絵を描くことはできない。しかしこのままで朽ち果てることはできない。いよいよ集大成を作らねばならない。背水の陣をしくことを決心する。

    1958年の暮れから奄美の旅に出る。サンゴの白い砂、エメラルドグリーンの海、青い空、黒いソテツとその赤い実、パイナップル、バナナ、ハマユウ、ユリ、…。奄美を旅した後、50歳になっていた田中一村奄美諸島を舞台に生涯最後の絵を書こうと決心をした。

    田中は対象とするあらゆるものを調べ尽くしてスケッチをする。そして、絵が楽しくなると、言動が狂人に近くなると自覚していた。ゴッホセザンヌ漱石、体感も同様の狂人であったと田中は言う。

    東山魁夷ら美術学校の同期生が世に出ている時でも、「絵描きは貧乏でなければ絵はかけません」「私にあるのは絵の実力だけです」と自負していた。

    苦しい生活の中で、田中の師であり、友であったのはピカソであったようだ。常にピカソ画集を手元に置いていた。

    54歳の時田中は10年計画を立てている。5年は働く、その後3年絵を描く。2年は働き、個展の準備をする。そして千葉で最後の個展を開く。一気に勝負をかけようとしたのであるが、残念ながらこの計画通りにはいかなかった。生活苦に明け暮れた生涯であった。田中は生涯独身であった。

    この辺になると世に出る事は諦めていた。「死んだ後50年から100年後に認めてくれる人があればそれでいい」と思うようになっていた。

    奄美では30点しか絵がかけなかった。最後の大作は「クワズイモとソテツ」であった。田中は生涯で600点ほどの作品がある。そのうち160点余りは奄美大島田中一村記念美術館に所蔵されている。千葉美術館も所蔵作品が100点を超えている。

    1984年、没後10年もたたずに、NHKの「日曜美術館」で「黒潮の画譜ー異端の画家、田中一村」が放映されて田中一村という画家に光があたる。2001年、田中一村記念美術館がオープン。その後、田中一村の企画展が数多く開催されている。 2008年、奈良の万葉文化館。2010年、千葉市美術館。2012年、沖縄県立博物館・美術館。石川県立美術館。2018年、岡田美術館。佐川美術館。2011年、千葉市美術館。

    2006年には田中一村の生涯を描いた「アダン」が公開された。出演では榎本孝明が主演している。アダンには公募によってデビューした木村文乃が当たっている。生涯にわたって一村を支えた姉の田中喜美子は古手川祐子が演じている。そして田中一村を描いた評伝も多い。

    田中一村は1977年に没している。本人の予想の50年後ではなく、死後直後からすでに田中の評価は高くなっていることがわかる。今まで、気になっていた田中一村という画家のことを少し知った。奄美の美術館を訪問したい。