編集出版会議で『フォト川柳』の提案。

編集出版会議のトライアル:『フォト川柳』の企画提案。松田俊秀さんから川柳についての説明。私から写真「後姿探検隊」の説明。石和田君も参加。

同席した濱野吉秀(日本健康ワイン&フーズ協会会長83歳)さんから面白い話を聞いた。太宰治の研究家。ワインと佐藤一斎太宰治展示室・三鷹の此の小さい家(三鷹市美術ギャラリー。CORAL5階)。太宰治文学サロン。三鷹電車庫跨線橋禅林寺太宰治旧宅。太宰横丁。野川家跡。藤田豊三郎(弘前の寄宿先。藤田葡萄園オーナー)。川上善兵衛(日本ワインの父)。津島園子(長女)。津島淳(孫)。山崎富栄。

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大学:打ち合わせ

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「名言との対話」12月16日。小磯良平「まだまだながめつくせない」

小磯 良平(こいそ りょうへい、1903年7月25日 - 1988年12月16日)は、日本昭和期に活躍した洋画家。

神戸の富裕な貿易商の家庭で育つ。東京美術学校藤島武二に学ぶ。、猪熊弦一郎と同級。在学中から帝展で入選、特選。首席で卒業後、2年間フランスに留学、サロン・ドートンヌで入選。1930年帰国、神戸を舞台に制作を続ける。29歳で結婚。30歳で洗礼。1936年、新制作派協会(現・新制作協会)を創立。

1938年から1年間藤田嗣治、中村研一らとともに陸軍省嘱託の身分で従軍画家として中国に渡り、帰国後戦争画を製作した。1941年に群像画の傑作「娘子関を征く」と「斉唱」を相次いで発表する。群像を書くため精力的に戦争画に取り組んだ。後には戦争画を描いたことに心を痛めていたため、画集に戦争画を入れることを拒んでいる。戦後は47歳で東京芸大講師、50歳で東京芸大教授になり逗子にアトリエを構える。1979年、文化功労者。1982年、芸術院会員。1983年、文化勲章。1988年、85歳で没。

幼年期は、洋館が立ち並ぶ街で自然に「西洋的な空気」を吸って幼年期を送る。クリスチャンの家庭で育ち、鉛筆と紙を与えておけば黙々と絵を描いて飽きることがなかった。1921年には倉敷で大原孫三郎のコレクションを公開した「現代フランス名画家作品展覧会」に感動を覚え、画家への志を強めた。フランス留学中にルーブル美術館パオロ・ヴェロネーゼ「カナの婚礼」に衝撃を受け、群像表現を極めることを生涯のテーマとする。

小磯は「欧州絵画の古典的な技法を日本の洋画に根付かせる」ための研究を根気強く続け、独自の画境を開いていく。的確な線描と知的な構成、清澄な色調と静謐典雅な作風を完成させていく。

1988年4月、兵庫県立近代美術館東館に小磯良平記念室がオープン。1992年、神戸市立小磯記念美術館が開館。1992年(平成4年)「小磯良平大賞展」が創設された。

生涯のテーマであった群像画では、「練習場の踊子達」があり、代表作のひとつの「斉唱」では上からみている視点と正面からみている視点を融合させた絵で、女学生たちの歌が聴こえてくるようだ。戦争画で練り上げた画法であろう。

1956年制作の肖像画「婦人像」は、宝塚歌劇団在籍中の25歳の八千草薫がモデルである。白い洋服に赤いブローチを身に着け斜め下を向いている清楚で爽やかな女性像は、静謐・端麗・典雅といわれる小磯の傑作だ。

次女の嘉納邦子は「多趣味でしたよ。本が好きでいつも読んで勉強していましたし、画集もよく観ていました。アーチェリーが趣味でしたし、晩年はゴルフも」、そして「絵は教わって描けるものではない、線一本引いたら分かる」と言われたと語っている。、1938年、フェルメール、ベラスケス、アングル、ドガ・・・・・・など、好きな西洋美術の画家たちを挙げた後「まだまだながめつくせない」と35歳の若き小磯が語っている。西洋の画家たちの傑作作品をどん欲に見ようとした意欲を感じさせる言葉である。

小磯良平 (ちいさな美術館シリーズ)