サントリー美術館「鈴木其一展」。
幕末の頃、江戸で最も人気のあった画家の一人で、近年その評価が高まっている。
18歳で江戸琳派の代表者であった酒井抱一(1761-1828)の内弟子となり、筆頭弟子となる。抱一とは35歳の年齢差があった。其一(1796-1758)の次女・阿清は鬼才絵師・河鍋暁斎に嫁いでいる。
同時代の画家は、浮世絵師の歌川広重(1797-1858)、歌川国芳(1797)。
抱一や其一の活動期は、文化・文政年間(1804-1829)で、化政文化の最盛期だった。そして其一は創造的に江戸琳派の棹尾を飾った。その影響は、大観・春草・観山らの琳派への傾倒の背景となっているかも知れない。
其一の画風は三期に分けられる。
一期は抱一の弟子となった18歳から
二期は40代。画風昂揚期。
「夏秋渓流図屏風」は其一傑作中の傑作。鮮烈なる色彩対比で人工美を築く。
「白椿に薄図屏風」は、銀箔地に墨の濃淡だけを使って稲妻形に流れゆく霧を描く。
三期は50代から亡くなる63歳まで。画風洗練期。人工美の世界。超現実的な美しさ。
「三十六歌仙図」。柿本人麿、紀貫之、家持、赤人、在原業平、小野小町らを描いた。
「四季花鳥図屏風」。「浅草節分会図」。
山並図小襖。四季歌意図巻。も印象に残った。
1906年の「光琳派画集」第5冊には、「技倆抱一に及ばずと雖も、後の作者遂に之に如かず、光琳の末流、実に斯の人を以て最終の後継?とす」とある。
其一は忘れられた画家だった。1972年に東京国立博物館で創立100周年特別展「琳派」で江戸琳派、特に鈴木其一に光があたった。それがきっかけとなって再評価が行われた。一つの企画展が一人の偉大な画家を世に送り出したということになる。
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「名言との対話」10月23日。セザンヌ。
「私は絵を描きながら死にたい。描きながら死にたい。」
「近代絵画の父」と呼ばれたセザンヌ(1839-1906年)も若い頃は落選の連続だったのは意外だった。30代は落選が続き、初入選は43歳だった。そして初の個展もそれから13年後だから、セザンヌは56歳になっていた。
セザンヌの油彩画は1000点。静物画は200点、水浴画は115点、肖像画は165点(うち自画像は25点)、風俗画90点を数える。
「芸術の頂点は人物画だ。」「自然を円筒、球、円錐という単純な形にとらえなおし遠近法の中に置く。その線や面を中心に向かうように配置する。」
「りんごひとつでパリを驚かせたい」と言ったセザンヌの静物画は、何か違う。このなぞは先日のNHKの日曜美術館が解いてくれた。セザンヌはリンゴ、壺、などすべての静物を、見たままにか描かずにそれぞれがもっともよく見える視点を選んで一つ一つ描いたのだった。「オレンジにもりんごにも、球体にも頭部にも、最も高い点があるということです。、、我々の目に最も近いところにあるのです。」と言っている。その高い点がよく見える視点を選んだのだろうか。あのピカソが師と言える画家はセザンヌ一人だったと言っている意味がわかった。セザンヌには師はいない。師はルーブル美術館であり、自然そのものだった。
「私は絵を描きながら死にたい。描きながら死にたい。」と言っていたセザンヌは、1906年、本当に絵を描きながら死んだ。