大隈重信記念室

大隈重信記念室。早稲田大学創立125周年を記念して2007年に設置。

以下、傑物・大隈重信の人生を総覧。

  • 大隈家は佐賀鍋島藩の石火矢頭人(砲術長)の家。120石。菅原道真の子孫とされる。
  • 藩校弘道館に入学するが退学処分。19歳新設の蘭学寮に入学。副島お兄・神陽の義祭同盟に参加。大木喬任江藤新平、久米邦武らと交わる。佐賀藩は長崎に蛮学稽古所(致道館)を大隈の発案で創設。加賀の高峰譲吉も参加。フルベッキは「二人の将来有望な生徒、副島と大隈をお知れ」たと手紙に書いている。
  • 鳥羽伏見の戦いの後、長崎会議所で佐賀藩を代表して外国公使らと交渉。手腕を認められ外国事務局判事。イギリス公使パークスと談判。その後、財政に関心。会計官副知事を兼任し、外交と財政を担当。次第に財政に専念。
  • 大蔵大輔、参議に昇進、築地西本願寺に隣接する屋敷で「築地梁山泊」と呼ばれる進歩的政策の震源地となった。
  • 明治6年の政変。大隈は参議大蔵卿として大久保を支えた。大隈財政。
  • 明治14年の政変。大隈の国会開設の奏議を過激とみた伊藤らは大隈を追放。犬養毅尾崎行雄、矢野文雄、小野梓らも官界を辞した。
  • 1882年東京専門学校が開校。1902年早稲田大学
  • 1882年立憲改進党結成。漸進改良主義を主張。
  • 松方内閣の外相、伊藤内閣の外相、
  • 1898年第一次大隈重信内閣。党内対立で4ヶ月で退陣。
  • 1914年第二次大隈内閣。70代後。対支21か条の要求。
  • 1907年早稲田大学初代総長。東西文明の調和。
  • 1922年、85歳で逝去。
  • 「諸君は必らず失敗をする、随分失敗をする、また成功があるかも知れませぬけれども成功より失敗が多い。失敗に落胆しなさるな、失敗に打勝たなければならぬ、度々失敗するとそれで此大切なる経験を得る、其経験に依って以て成功を期さなければならぬのである。」「所で此複雑なる社会の大洋に於て航海の羅針盤は何であるか、学問だ」

「名言との対話」10月22日。岩田弐夫。

「平凡の凡を重ねよ、いつかは非凡になる」

  • 1910-1992 昭和-平成時代の経営者。明治43年2月18日生まれ。昭和9年東京電気(現東芝)に入社。石坂泰三社長の秘書をつとめる。土光(どこう)敏夫社長に抜擢(ばつてき)されて専務となり,51年社長。不採算部門の見直し,関連会社の経営刷新などで同社の基盤を強化した。63年日本たばこ産業の初代会長。平成4年10月22日死去。82歳。愛知県出身。東京帝大卒。
  • 「要するに、責任者として最も大切なことは、あらゆる意味で私がないということです。人を挙ぐるには、すべからく退くことを好むものを挙ぐるべし。」
  • 「わたしが四十年前に大学を出るとき、総長の祝辞の中にこういうのがあった。
    『諸君は実社会へ出てからも、長年学校でやった外国語に十分でいいから接してもらいたい。それを続けてもらえば、やがて諸君の人生にどれだけ裨益(ひえき)することになるか、はかりしれないものがある』。それをきいた時、私は「何だ。たいしたことではないじゃないか。朝の十分ぐらいはジャパン・タイムスを読むよ」と思ったのですが、とうとう実行できなかった。結局、わたしは六十歳をすぎて、やっとその習慣がもてるようになったのですが、このように平凡で誰にでも実行できそうなことは、実はなかなかやれない。そこで、今、ここでお願いしたいのは『平凡に徹せよ』ということです。当たり前のことを当たり前にやる。そして、この積み重ねがホンモノとなった時、それは非凡に通ずるのです。」
  • 平凡の凡を重ねて行くと、いつか非凡になっている自分を発見する。この考えは私のもっとも愛する言葉の一つだ。凡才を自覚するものにとって、勇気をもらえる名言である。この路線で行くしかない。