「遅咲き偉人伝」第13回目は小説家の新田次郎。
https://www.youtube.com/watch?v=TSIJfjO95ts
- 新田 次郎(にった じろう、本名:藤原 寛人(ふじわら ひろと)、1912年6月6日 - 1980年2月15日)は、日本の小説家。
- 気象庁の役人。測器課長(51歳)として富士山頂の測候所を完成。
- 二足のわらじ。役人作家。
- 退職(54歳)小説家として一本立ち。「強力伝」「八甲田山死の彷徨「武田信玄」。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
39度の猛暑。「図解塾」の準備。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「名言との対話」8月2日。速水御舟「梯子の頂上に登る勇気は貴い。再び登り返す勇気を持つ者は更に貴い」
速水 御舟(はやみ ぎょしゅう、1894年(明治27年)8月2日 - 1935年(昭和10年)3月20日)は、大正・昭和初期の日本画家である。本名は蒔田栄一。
東京浅草出身。1908年に優れた教育者でもあった画家・松本楓湖主宰の安雅堂が塾に入門。同門の兄弟子・今村紫紅と行動をともにする。禾湖、浩然の号を経て、1914年に速水御舟を名乗る。御舟とは貴人の乗る舟の意味である。1917年、第4回院展に出品した『洛外六題』が激賞され、日本美術院同人に推挙された。
1925年、軽井沢に3か月籠って代表作『炎舞』を完成させる。
1930年、大倉喜七郎後援の「ローマ日本美術展覧会」参加のため横山大観らと渡欧し、『名樹散椿』を出品。イタリア、ドイツ政府から勲章を受章した。
速水御舟は今村紫紅の新南画、装飾的な琳派、写実技法の西洋画と、常に新しい日本画を模索し続け、将来を期待された。
代表作の一つ『炎舞』は、深い黒の闇の中で真赤に燃える炎の周りを蛾たちが舞う姿を描いたもので、幻想的であるが、迫真の写実作品である。この作品は山種美術館に収蔵されている。山種美術館には速水御舟の絵が100点以上収蔵されているのだが、もともとは安宅産業の安宅英一が集めたコレクションの一部である。有名な安宅コレクションは、中国陶磁、韓国陶磁、速水御舟の3本柱でできていた。そのほとんどは大阪市立東洋陶磁美術館の核となっている。その一部を山種美術館が一括購入したのである。
渋谷区広尾のこの美術館はよく訪れるが、速水御舟、川合玉堂、奥村土牛のコレクションが中心である。
御舟は惜しいことに40歳の若さで亡くなっており、寡作でもあったために、生涯で600点ほどの作品しか残っていない。原山渓がスポンサーになり、そして武智鉄二が集めた御舟の作品が安宅コレクションに結実したのである。
『婦人画報』2019年7月号では、御舟と市川雷蔵に関するコラボ企画が載っている。その記事の中で、「梯子の頂上に登る勇気は貴い。再び登り返す勇気を持つ者は更に貴い」という御舟の言葉をみつけた。ある分野の頂点を極めようとするには努力だけでなく凛凛たる勇気が必要だ。そこから見える景色をわがものにしたら、そこから降りて、再びさらに進化した分野の頂点に向かって勇気をふりしぼって登っていこうとする御舟の心意気を感じることができる名言である。
中国の南宗画由来の文人画とも呼ばれる南画、装飾性が豊かで大胆なデザイン性を持つ琳派、そして徹底した写実を重視する西洋画と何度も梯子を登り、登り返した速水御舟の画家としてのキャリアがみえる。この画家に長い時間があったなら、日本画の世界も大きく変わったかもしれない。改めて山種美術館で御舟をしのびながら『炎舞』をみてみたい。