前橋文学館−−萩原朔太郎記念館

那須から長躯、軽井沢へ。
東北自動車道北関東自動車道上信越道軽井沢へ。

途中、前橋で降りて、前橋文学館。
萩原朔太郎記念館を訪問。

萩原朔太郎(1886-1942年)は近代口語自由詩の実践者で、後の詩人たちに大きな影響を与えた。
1917年の第一詩集「月に吠える」と1923年の「青猫」で、その地位を不動のものにした。

日本詩界の潮流を根本から覆したと言われる「月に吠える」は、発行人は室生犀星、序文は北原白秋である。
序文で白秋は「何と言っても、私は君を敬愛する。さうして室生を」から始まる。
白秋は朔太郎より2つ上で、朔太郎は犀星より2つ上であり、この3人は互いを評価しあっていた。
朔太郎は「詩とは感情の神経を掴んだものである。生きて働く心理学である」t述べている。

高村光太郎(1883-1956年)は、「この詩人の詩は、ああ蒼く、深く、又すさまじく、美しく、日本語の能力を誰も予期しなかったほど大きくした」と評価している。

「青猫」はブルーな、ゆううつな色調でおおわれており、生の無為、倦怠が一貫したテーマであり、ニイチェやシーペンハウエルの思想の影響を受けている。

「詩は言葉以上の言葉である」と代表作「月に吠える」の序で語った朔太郎は、写真、音楽、書物のデザインとマルチアーチストだった。

15歳の時に、「鳳晶子の歌に接してから私は全で熱に犯される人になってしまった。」と述べ、16歳で初めて歌を作っている。「この時から若きウェルテルの煩ひは作歌によって慰められやうに成った」。

ふらんすに行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。、、

で始まる有名な「旅上」は、萩原朔太郎の作品だったことを知った。

朔太郎の年表を眺めると、学校への入学と退学を繰り返しているのが目にとまった。
21歳五高(熊本)英文科を落第、22歳六高(岡山)独法科退学、25歳慶応大学予科入学、26歳京都帝大選科受験失敗という経歴をみると、何か世間におさまりきれないものを感じる。
父は前橋医師会の会長をつとめるほどの人だったので、こういう生活も許されたのだろうか。

27歳で故郷の前橋に戻って芸術家としての活動を始める。この頃の写真には、ハンサムではるが神経質そうな表情で、トルコ帽をかぶった姿があった。
この地を本拠地として、互いに認め合い生涯の友人となった二つ年下の室生犀星、二つ年上の北原白秋、そして山村暮鳥、日夏などの詩人と交わる。

「詩は何より音楽でなければならない」という朔太郎は、マンドリンを演奏する。前橋で活動したクラブは、群馬交響楽団の前身である。アマチュアカメラマンとしても相当の工夫をする腕前だった。朔太郎の写真の対象は、第一の弟子であった三好達治によれば「要するに、例外なく、その夥しいコレクションは、いづれもごたごたとした人混みの、市井のつまらぬ風景だった」のである。朔太郎は自然の景色には全く興味がなかった。

「抒情詩とアフォリズムとは、私の詩精神の両面であった」
「父は永遠に悲壮である」

31歳で第一詩集「月に吠える」を出版し世に出る。この頃谷崎潤一郎と会う。
33歳で上田稲子と結婚する。この結婚は10年ほど続く。
37歳、関東大震災。親戚を見舞いに上京する。
39歳、上京し、芥川龍之介室生犀星と往来する。中野重治、堀辰夫。
48歳、明治大学文芸科講師
52歳、「日本への回帰」を刊行。この年、大谷美津子と結婚。
54歳、透谷賞を受賞。
56歳、死去。

朔太郎は、書物の装幀とデザインに凝り、自身も手掛けている。「装飾とは内容の映像」という考えの朔太郎は、自身唯一の小説「猫町」のデザインを自著のもっとも気に入っている。煉瓦の壁に「Barber」という文字と「猫の顔」が描かれた面白いデザインである。この本には、「装飾案・萩原朔太郎 画・川上澄生」となっているから、案を自分でデザインし、それを画家に描いてもらったのだろう

第一詩集で代表作なった「月に吠える」でも、独特の幻想的なデザインで、詩と画とが一体となって美しく、書物としても近代詩の世界でも画期的な詩集だった。「美しい詩画集を出したい」と装飾を依頼した恩地孝四郎にあてた書簡でも語っている。恩地と田中恭吉と三人の芸術的共同事業でありたいと願った朔太郎は、「実に私は自分の求めている心境の世界の一部分を、田中氏の芸術によって一層はっきりと凝視することが出来たのである」と書き記している。

それでは、萩原朔太郎にとって「詩」とは何か。詩の目的は、「感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである」と言っている。

前橋文学館が編集した「萩原朔太郎室生犀星の交流」という小冊子を読むと、二人の飾らない交流がわかる。
「萩原と遊ぶとセンチメンタルといふ言葉を常に新しく感ずるとは不思議なり」(再生)
「犀星といふ男は真に不思議な恵まれた男であり、生まれながら文学の神様に寵愛されたやうな人間である」(朔太郎)

室生犀星は「善良で好人物である正直者はいつも人生で損ばかりしているといふことも、この詩人の生涯を見渡していると判って来るのだ。」と語っている。ここには、神経質で気難しい朔太郎の姿はない。
−−−−−−−−−−−−−−−−
「名言との対話」 3月22日。城山三郎

  • 「静かに行く者は健やかに行く。健やかに行く者は遠くまで行く。」
    • 足軽作家」と呼ばれるほど、どんな場所にも足を運ぶ人だった。城山は人物を書いたが、モデルとなる人物には接触せずに作品を執筆するというスタイルをまもった。1969年の執筆予定メモをみると、7本で2000枚の執筆予定があった。「雄気堂々」は渋沢栄一。「辛酸」は田中正造。「鼠」は金子直吉。「男子の本懐」は浜口雄幸井上準之助。「落日燃ゆ」は広田弘毅。「ビッグボーイの生涯」は五島昇。「運を天に任すなんて」は中山素平。「わしの眼は十年先が見える」は大原孫三郎。「もう君には頼まない」は石阪泰三。「祖にして野だが卑ではない」は石田礼助。「小説日本銀行」、「官僚たちの夏」、「毎日が日曜日」、「黄金の日々」、
    • 遺作となった「そうか、もう君はいないのか」は、愛する妻の死に直面した苦悩を記した書である。3月22日、城山三郎は喪失感の中で死の床についた。
    • 以上の作品を読むとわかるが、城山三郎は偉人達の残した、愛した「言葉」」の収集家でもあった。
    • 「現場にはあらゆる人生の材料がころがっている。その中から、自分で問題をつかみ、その問題をひろげ、深めて行くことである」「やれたかも知れぬことと、やり抜いたこととの間には、実は決定的な開きがある」「一作つくるときは、その一作で勝負すること」「一日一快」。
    • 城山は、戦争体験を経て、若い頃のベ平連や晩年には個人情報保護法反対の先頭に立つなど、社会運動も行っている本気の人だったように思う。
    • 城山には組織と個人の葛藤を描いた作品が多い。偉人たちの志や苦闘を描いているが、組織の中で悪戦苦闘している人々は励まされる。私もその一人だった。静かに、健やかに、遠くまで行きたいものだ。