午後、東京ステーションギャラリーで「ハリー・ポッターと魔法の歴史」展を訪問。
言わずと知れた世界的大ベストセラーの展覧会。予約が必要だが、当日券があったので、みることができました。ほとんどが若い女性です。
「ハリー・ポッター」シリーズは80言語に翻訳され、5億部以上を売り上げ、全8作品の映画シリーズも大ヒット。
著者のJKローリングの初期の草稿、スケッチ原画、筋書きの構成案、などが展示されている。ギリシャのパピルス、エチオピアの魔除け、中国の薬草書、ペルシャの不死鳥、タイの天宮図、日本のミイラ、シロフクロウなど興味深いものをみることができました。
著者のJKローリングについて調べて、書く予定。
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11時半に虎ノ門の喫茶「珈琲大使館」(全席喫煙!)で橘川さんと待ち合わせ。
(株)クロスロードの古澤社長を訪問し、虎ノ門ヒルズで昼食。その後、喫茶で懇談。
夜はHIRAKIKATA同期会のZOOM勉強会。1万2千歩。
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今日のヒント。甘粕正彦(憲兵大尉)。角田房子『甘粕大尉』(ちくま文庫)
「生き甲斐は、民族の長たり、政治の首長たる皇室、皇室の有たる日本国に、凡てを空しうして仕えること、、」
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「名言との対話」1月25日、北原白秋「短歌は一個の小さい緑の古宝玉である」
北原 白秋(きたはら はくしゅう、1885年(明治18年)1月25日 - 1942年(昭和17年)11月2日)は、日本の詩人、童謡作家、歌人。
19歳、中学を卒業試験中途で退学し、父に隠れて上京。早稲田大学英文科予科に入学。同級生には若山牧水、土岐善麿、佐藤紅緑らがいて、牧水とは牛込の清致館という下宿に同宿した。これ以降、与謝野寛の新詩社に参加するなど頽廃的な感覚詩を次々に発表し、有望な新進詩人として活躍する。22歳の時には森欧外の観潮楼歌会に出席し、佐々木信綱、伊藤左千夫、斉藤茂吉らと親交を結ぶ。
25歳で出版した処女詩集『邪宗門』は大きな反響を呼んだ。その前に与謝野寛、吉井修、木下杢太郎らと九州の福岡、長崎、熊本を旅行し、キリシタン26聖人殉教地、天草四郎の反乱の地などを訪ねた。邪宗門はその成果である。色彩感覚、官能的な作風である。金沢では室生犀星が感激し読んでいる。石川啄木は「新しい感覚と情緒」「今後は新しい詩の基礎となるべきものだ」と感想を述べている。
26歳第二詩集「思ひ出」を刊行し、高い世評を得る。28歳では、処女歌集「桐の花」を出版する。「私の詩が色彩の強い印象派の油絵ならば私の歌は裏面にかすかに動いているテレビン油のしめりであらねばならぬ」と白秋は述べている。
また白秋は「赤い鳥」「花咲か爺さん」「ほうほう蛍」などの童謡を生涯で1200編生み出している。作曲の山田耕作とのコンビも長く続いた。
私は2006年に福岡県柳川市の北原白秋記念館を訪問したことがある。詩聖・北原白秋の記念館は、福岡県柳川市の白秋の生家にある。福岡天神の西鉄電車に乗って45分ほどで水郷・柳川に着く。この電車は九大の学生時代に大宰府や家庭教師をやっていた家まで通うのによく使っていた。薬院など懐かしい駅名が並んでいる。柳川は初めての訪問だ。
北原家は代々柳河藩立花家11万石の御用達をつとめ、油屋、海産物問屋を商い、祖父の代より造り酒屋も営み栄えていた。その母屋は、座敷、仏間、父の6畳間、茶の間、店、番頭食事場、男衆食事場などがあり、2階には子供部屋がある。80坪(264m)の土蔵造りで、北原家なきあと競売にかけられるが、保存会が活躍し、昭和44年11月1日に復元された。県指定の文化財である。
歌集が展示してあった。母が歌を詠むので眺めていたら、よく知っている名前にいくつも出会った。歌集では「形成」、「波濤」、「地脈」が目に入った。私の実家でよく見かけた名前である。「形成」は白秋の弟子である木俣修が主宰しているし、「地脈」は母の歌の師匠・有野正博創刊だから、私の母は白秋の系統だったことを初めて知った。白秋は佐々木信綱の系統だが、もう一つの正岡子規(根岸短歌会)が源流となっている有力なアララギという系統がある。
家の庭から続いているのが、柳川独特のなまこ壁の土蔵造りの北原白秋記念館である。1階は柳川についての展示で、2階が白秋についての展示室だ。ここでは生涯を5つの時代に分け、時代を追って、白秋の業績の全貌を紹介している。生涯を1.【柳川時代】2.【青春時代】3.【遍歴の時代】4.【壮年の時代】5.【豊熟の時代】と5つに分けている。この記念館は生誕100周年記念事業としてつくられ、昭和60年1月25日(誕生日)にオープンした。
白秋は女性関係では事件が多い。27歳のときに隣家の人妻・松下俊子と恋愛事件を起している。俊子の夫から姦通罪で告訴され、市ヶ谷の未決監に2週間拘置される。翌年夫に離縁されていた俊子と偶然再会し正式に結婚する。29歳で貧窮のうちに俊子と離別。31歳で青踏社の平塚雷鳥のもとに身を寄せていた大分県出身の江口章子と結婚するが、35歳のときに三階建て洋館の地鎮祭の夜に章子が突然姿を消す。36歳、大分県出身の佐藤菊子と結婚しようやく充実した家庭生活を得る。長男が翌年、40歳で長女が生れている。これ以降さらに活発な文筆活動が続いていく。
旅行詠を中心にいくつか短歌を拾ってみよう。
韮崎の白きペンキの駅標に薄日のしみて光るさみしき
城ヶ島の女子うららに裸となり見れば陰出しよく寝たるかも
北斎の天をうつ波なだれ落ちたちまち不二は消えてけるかも
駿河なる不二の高嶺をふり仰ぎ大きなる網をさと拡げたり
葛飾の真間の手児奈が跡どころその水の辺のうきぐさの花
この大地震避くる術なしひれ伏して揺りのまにまに任せてぞ居る
軒並みは旅籠の名のみゆゆしくてこの追分の宿も荒れたり
興安嶺黒く繁み立つ落葉松の林は寒し雲の上に見るゆ
夢殿や美豆良結ふ子も行きめぐりをさなからりけむ春は酣
奥の多摩小河内の谷入りふかし時化あとの水ぞ濁り渦巻く
ニコライ堂円頂閣青さび雲低しこの重圧は夜にか持ち越す
金色堂み雪ふりつむ鞘堂の内幽かにか黄金ひびらぐ
高校生この子下ゆくシーソーにうべ軽々と地知をせり上ぐ
耶馬台のわたつみの族しかれこそ海にいばゆる声ぶちまけぬ
歌集『夢殿』の冒頭に「山門の歌」という説明がある。「山門はもうまし耶馬台、いにしへの卑弥乎が国、水清く、野の広らを、稲豊に酒を醸して、菜は多に油しぼりて、、、、げにここは耶馬台(やまと)の国、不知火や筑紫潟、我が郷は善しや。雲騰り潮明るき海のきはうまし耶馬台ぞ我の母国」とある。中津の同人誌『耶馬台』は、ここから採ったのだろう。耶馬台は、「やまと」のことだったのだ。
編者の高野公彦は「解説」で次のように白秋を語っている。白秋は他力、多面、多作の人。詩と短歌、詩論・歌論・随筆・紀行文、小説、俳句。長歌、童謡・小唄・民謡の作詞。多伎多彩。詩と短歌の二つを焦点とした大きな楕円が白秋。12冊の歌集。歌数は8000首。うち5冊は没後の刊行。過去の収穫を世に問うより、現在の創作を大切にする人。
第一歌集『桐の花』 の冒頭では「短歌は一個の小さい緑の古宝玉である」と述べている。そして「かりそめの病に飲む一杯の古いシャンペンの味である」、「私の詩が色彩の強い印象派の油絵ならば私の歌はその裏面にかすかに動いてゐるテレピン油のしめりであらなえばならぬ」「私の歌にも欲するところは気分である、陰影である、なつかしい情調の吐息である、、」と続けている。