荻野吟子記念館ーーー日本の女医第一号

お彼岸でもあり、妻の実家の館林に墓参り。

車で、関越の東松山で降りて、埼玉県熊谷市俵瀬の荻野吟子記念館を訪ねる。
このところ、東京女子医大創設の吉岡弥生日本女子大の開学に功績のあった広岡浅子と、明治の女子教育の先駆者を訪ねている。
その女傑シリーズの先輩が、荻野吟子だ。1851年生まれ、!913年永眠。享年63歳。
日本初の女医として有名な人である。
この人の人生はまことに凄まじい。

18歳、稲村貫一郎と結婚。両宜塾で松本萬年に学ぶ。(貫一郎は若くして名主に。埼玉県議会副議長。実業家としても大成)
19歳、夫から淋病を移され離婚し、大学東校付属病院に入院。子供を産めない体に。診察の羞恥屈辱感から、女性が女性を診るべきだと、女医を目指す決心をする。
「女医になる。きっと女医になってやる。きっとなる。きっとなってみかえしてやる」
「学問というものが単に知るということではなく、疑うということから始まることを知った」
24歳、東京女子師範学校(お茶の水女子大)第一期生として入学、卒業。
本名の「ぎん」は新しい時代を切り拓く女の名としては迫力不足として「吟子」に変える。
「人と同じような生活や心を求めて、人々と違うことを成し遂げられるわけはない。これでいいのだ。」
28歳、私立医学校の好寿院に入学、31歳で卒業。男装して受講。抜群の成績。
31歳、医術開業試験嘆願書を、東京府、東京都、埼玉県に提出する。女性には認められないとしていずれも却下される。
玉出身の塙保己一が復元した「令義解」(養老律令の公的注釈書)に、「女医は官有の賎民で十五歳以上、二十五歳以下の意識が優れている者三十人を選んで別所に安置しなさい」とあるのを発見する。兵部省高官の石黒、衛生局長長長与専斉に直訴。
33歳、ようやく受験が許され前期試験に合格、翌年後期試験合格。女医第一号。ようやく鉄の扉が開く。
35歳、本郷湯島に医院を開業。産婦人科。本郷教会で海老名弾正から洗礼。東京婦人矯風会に参加、後に風俗部長。
「女性の地位を認めているのは耶蘇教だけです。耶蘇教を拡めることは女性の地位を高めることになるはずです」
36歳、大日本婦人衛生会に参画。翌々年明治女学校教師校医。舎監。
40歳、熊本県の志方之善27歳と結婚。同志社の学生。
「志方と一緒に神の道を進みます」
45歳、北海道での夫のキリスト教理想郷建設に協力。トミを養女に。
46歳、医院を開業。淑徳婦人会会長。婦人解放運動に先駆。
54歳、夫病死。
57歳、北海道を引き揚げ、東京都向島に医院を開業。(北海道瀬棚町に記念館)
吉岡弥生は医院にも足を運び吟子の影響を強く受けた。
63歳、永眠。

この人の一生は感興を誘う。
作家の渡辺淳一は『花埋み」として1970年に小説にしている。
1998年に三田佳子主演の舞台「命燃えて」が脚光を浴びる。
この記念館は2004年に開館している。


記念館のある公園に像が建っており、愛誦の聖句が刻まれている。
「人とその友のために 己の命を 捨つるは是れより 大なる愛はなし」

公園の裏手は利根川だった。
菜の花がいっぱい咲いて感動的だった。

そこから、館林に向かい、墓参り。


「名言との対話」3月21日。深田久弥

  • 「百の頂に百の喜びあり」
    • 深田久弥(1903年生れ)という名前は山をやっていた私にも懐かしい名前だ。名著「日本百名山」で読売文学賞を受賞した作家である。俳号の九山は、久さんをもじったものである。代表作「日本百名山」は雑誌「山と高原」に56歳の昭和34年(1971年)から4年ほど連載したものを、還暦60歳の昭和39年に出版し、それが翌年受賞となった。
    • 深田久弥は、東京帝大文学部哲学科を中退し小説を書いたが、晩年は「山」をテーマとした山の文学者として紀行文や随筆を書いた。そしてヒマラヤ研究の第一人者となる。その深田は1971年3月21日、山梨県茅ヶ岳頂上付近で脳溢血で急死している。長生きの家系としては異例だが、若い68歳で死を迎えた
    • 深田久弥を語る友人は、「木戸を直す余裕があるのならその分で本を、中央アジアやヒマラヤの本を買うというのが深田家の思想だったのだ。」と語っている。
    • 「人の真似をしなというのは、何でもないことのようだが、実行はむずかしい。、、人のあとについて行くのは易しいが、自分で道を切り開いて行くには努力がいる。」深田は独特のポジションを獲得し、好きな山行きに生涯を費やした。
    • 冒頭の言葉は、あらゆる分野に言えることだというより、こういう心意気で取り組むことが、ライフワークへの道だろう。