「鈴木大拙の言葉」(大熊玄)−−成長はまたつねに苦痛をともなう

鈴木大拙の言葉」(大熊玄)を読了。

鈴木大拙の言葉―世界人としての日本人

鈴木大拙の言葉―世界人としての日本人

著者は、鈴木大拙の親友・西田幾多郎を顕彰した西田幾多郎記念哲学館の学芸員で、中学生向けに大拙の思想を平易に伝えようとて著した本である。
大拙は世界へ「禅」を紹介した人物として知られる。鎌倉時代に伝来して以来、日本の生活・文化に多大な影響を与えた禅について書かれた部分を自分なりの理解で以下に並べてみる。
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アーチスト・オブ・ライフとは、生きるということの芸術家という意味である。
芸術家は表現をするための道具が必要だが、誰もが持っている肉体を粗材とし、道具とし、生活の中に表現することは誰でもできる。それが人生の芸術家であり、自らの日常生活を芸術品に仕上げていくのが理想である。

「成長はまたつねに苦痛をともなう」。
それは天意である。苦しめば苦しむほど、人格は深くなり、その深まりとともに、より深く人生の秘密を読み取るようになる。悲しみのパンを口にすることなくしては真実の人生を味わうことはできない。

禅は「言葉に頼るな(不立文字)」を言う。
禅的な方法とはじかに対象そのものの中に入っていく。そして実際そのものの中からモノを見る。花を知るには花になりきることで、初めて花が語りかけてくる。花を知った知によって全宇宙の神秘を知る。そして同時に自己を知る。

禅は何にもこだわらないことを強調する。

自由の本来の意味は、自らに在り、自らに由り、自らで考え、自らで行為し、自らで作ることだ。

禅は季節に移り変わる自然のできごとに深く関心を持つ。
日本の歌人俳人は自然と一体になって自然の鼓動を一つ一つ自分の血管を通じて感得する。
芭蕉は全存在に通貫する神秘を身をもって感得する。この感銘の深みにわれを忘れて、深い詠嘆の声を発する。

「名言との対話」5月22日。吉岡弥生

  • 「至誠一貫」
    • 吉岡弥生東京女子医大の創立者。女性医師の育成と婦人の地位向上に生涯を捧げた。1871年生まれ。5月22日、逝く。
    • 1900年(明治33年)、済生学舎が女性の入学を拒否したことがきっかけとなって吉岡弥生(29歳は東京女医学校を開校する。この年は二葉幼稚園、津田梅子の女子英学塾が開学し、翌年には鳴瀬仁蔵の日本女子大学、藤田文蔵の女子美術学校も開校するなど、女子の高等教育の出発となった時期である。吉岡弥生は、「女子教育」という視点から、看護師、保健師、美容師、栄養などの分野でも先陣を切った。
    • 驚くのは、31歳の時に学生たちの参考に自らの出産を見学させたというエピソードも残っている豪の者であった。52歳では関東大震災に遭遇し、苦労してつくった第二至誠病院を焼失している。1955年(昭和30)危篤に際し、勲四等宝冠章を賜る。しかし、叙勲の知らせで奮起し、奇跡的に回復したというエピソードも残っている。
    • 以下、書簡集から。「謹賀新年。庶政一新を望む者は すべからく自己一新を図るべし」「日本の医学は治療医学を良しとして予防医学を疎かにしたので、、」「治療医よりも予防医の方がむしろ女医に適しておると思います。」「私の持論としては女医が結婚するには専門科目を異にすることがよいと思います。」書簡集の手紙の文面を読むと、吉岡弥生は誰に対しても率直に、そして丁寧に言葉を選んでおり、温かい人柄を感じさせる。多くの教え子の女医や、大隈重信市川房枝などにも影響を与えたことがよくわかる。
    • 「至誠一貫」が座右の銘である。吉田松陰は「至誠にして動かざるものは、未だこれ有らざるなり。」と言ったが、吉岡弥生は、松陰の言そのままに、「女子教育」という志を胸に、初めから終わりまでまごころを捧げ続けたのである。