「川柳」始めましたーー「偶然の馬に乗り込み身をまかす」

 

  • 先週から始めた「川柳」。快調。1日7作ほどできている。「一人一党」でいこうかな。「偶然の馬に乗り込み身をまかす」「義母逝きぬ己不在の式案じ」「記録より歴史を創る二刀流」「何ごとも最後の最後は勘と運」「一芸を抱えて歩まん淡々と」「事故はみなミスと欠陥の複合体」、、、、。
  • 「図解塾」の準備。「新文明世界地図」「生態史観からみた日本」「東南アジアの旅から」など。
  • 知研:定款変更の届出を開始。
  • 1万1千歩。

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「名言との対話」10月18日。鈴木大拙成長はまたつねに苦痛をともなう」

鈴木 大拙(すずき だいせつ、本名:貞太郎〈ていたろう〉、英語: D. T. Suzuki 〈Daisetz Teitaro Suzuki1870年11月11日明治3年10月18日〉 - 1966年昭和41年〉7月12日)は、日本仏教学者文学博士である。

2011年、10月18日の誕生日に開館したばかりの金沢の「鈴木大拙館」を、石川県庁職員の研修中の昼休みにあわただしく訪問した。

鈴木大拙は禅の研究を通して東洋の思想を世界に伝えた人物である。存命中の1960年発行の「ライフ」で「世界に現存する最高の哲学者は誰か」という世論調査で圧倒的多数で鈴木大拙が選ばれている。「近代日本最大の仏教学者」(梅原猛

大拙の最終学歴は「中卒」である。在籍した第四高等学校、東京専門学校、帝国大学文科大学は、いずれも中退しているからだ。四高時代には、西田幾多郎(哲学者)、山本良吉(武蔵高校の創設校長)、藤岡作太郎(国文学者)と巡り合っている。

26歳でアメリカに行き、宗教学者・ポール・ケーラスの助手としてオープン・コート出版社に勤める。米国滞在は11年に及ぶが、この間に『大乗仏教概論』を英文で出版している。また、生涯の伴侶・ビアトリスとも出会う。ようやく帰国した1909年には、すでに37歳になっていた。大拙は安宅産業を起こした四高の同級生安宅弥吉が献身的な支援を惜しまなかったこともあり、紆余曲折を経て世界的人物になったのである。大拙は、尊敬すべき師と優れた友人に囲まれていた。

神保町の古本屋で見つけた、鈴木大拙座談集第一巻を読んだ。座談の相手は、武者小路実篤、長与善郎、長谷川如是閑松永安左エ門福田恒存折口信夫和歌森太郎というそうそうたる人物たちだ。 大拙と多様なジャンルの知識人との座談は興味深い。鈴木大拙の発言を中心に追ってみたが、この本が出た1971年に大拙は、共産主義者はもう少し20、30年たったら反省してくるであろう、と言っている。ソ連が崩壊したのが18年後の1989年だから、予言はぴったり当たっていたのに驚いた。

日本の国民性のもとになっているのは富士山だ。白い雪におおわれた頂きが青い空に映じてみえるというすがすがしい心持ち、けがれのない心持ちになる。大拙はこの富士山が日本的性格に関係しているという。吉田茂が富士山と皇室が日本だと語っていたのはそいうことだったのだろう。

「アーチスト・オブ・ライフ(人生の芸術家)になれ、自分の絵の具と筆を使って自分の絵を描け」「人間は、九十にならないと分からんこともあるのですよ」「死を恐れるのは、やりたい仕事を持たないからだ。やりがいのある、興味ある仕事に没頭し続ければ死など考えているヒマがない。死が追ってくるより先へ先へと仕事を続ければよいのである」

2020年の月刊「致知」8月号(2020年)は「鈴木大拙」の大特集だった。いまだに大拙は影響を与え続けていろのだ。

  • われわれはみな、生きることの芸術家(アーチスト・オブ・ライフ)として生まれてきている。文学や芸術のほかに、人間の生活そのものが、詩となる。文字に出る詩人だけでなく、我ら人間の一挙一動がことごとく詩になり、芸術的に美しいものとなる。
  • 生命は「墨絵」である。ためらうことなく、知性を働かせることなく、ただ一度かぎりで描かねばならぬ。
  • 真黒になって、黙々として、朝から晩まで働き、時節が来れば、「さよなら」で消えていく。このような人をえらい人と、自分はいいたい。
  • 一歩一歩上がれば何でもないぞ。一歩一歩努力すれば、いつの間にか高いところでも上がっている。
  • 人間には、他の生物と違って大悲というものがなくてはならぬ。
  • 自らによる、それこそが自由だ。
  • まだまだだぞ。
  • 実現せられんから追求せんのではない。実現せられんから追求する。
  • 人生は、どう論じようとも、結局苦しい闘争である。だが、苦しめば苦しむほど、あなたの人格は深くなり、そして、人格の深まりとともに、あなたはより深く人生の秘密を読みとるようになる。
  • 人生は万物の基礎である。人生を離れて何者も存在し得ないのである。…、星の観察者は今なお固い地上を歩いている。
  • ほんとうの祈りというものは、叶うても叶わんも、むしろ叶わんということを知りつつ、祈らずにおられんから祈るというのがほんとうの祈りで、祈るから叶うという相手に目的を置いて祈るのでは、ほんとうの祈りではない。
  • 人間の一生は不断の努力であり、永劫に聞かれぬ祈りであり、無限に至り得ない完全性の追求であるといえるのです。
  • 人間は完全なるものに向かう終りなき戦いです。
  • 自分たちは結婚生活の目標を東洋思想、東洋の心の動き、感情と言うべきものを欧米各国の国民に宣布することに定めた。
  • 世界人としての日本人。
  • ノー。ナッシング。サンキュー。
  • 依頼心を捨てよというのが(釈迦の)最後の説法であった。
  • ただ滅茶苦茶にはたらくのだ。はたらいてはたらいてはたらきくのだ。
  • 日本的霊性法然親鸞の世界を描いている。阿弥陀仏の絶対無条件の大悲によって、この身このまま救われる。禅と浄土宗は一つに結ばれるところがある。これが日本的霊性である。
  • 十分にこれ(苦)を味わっていくべきものと思います。
  • 仏教の中で最高峰は華厳理想だ。
  • コツコツとやっていく。そうすると、自分とやることとが一つになる。
  • (内面的生活が十分に働かぬから)どうしても吾等は年を取らねばならぬ。
  • 計らひを離れるというのは、仕事にわきめを振らぬと云う義である。

 大拙は禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に広く知らしめた人だ。著書は約100冊あるが、その内23冊は、英文で書かれている。 それが世界の日本の理解を深めたのである。

宗教学者山折哲雄は晩年の大拙に何度か会っている。そして、こう記している。津田左右吉俳人・一茶を日本文学史上の最高の文学者とし、鈴木大拙妙好人を高く評価し、土居健郎がもっとも惹かれる人物が良寛であると吐露している。大拙は禅や浄土宗など大拙が研究したものは、中国やインドの叡智を学ぶのではなく、それを機として「日本的霊性」が外に現れてくるという言い方をしている。大拙の著書は、禅の世界観を用いて日本文化を伝えようとしたといえるだろう。日本研究の人ということだろう。 

大拙は90歳頃から親鸞の「教行信証」の英訳にあたっている。聖路加国際病院理事長の日野原重明が、90歳以降の最晩年の鈴木大拙を診ている。当時日野原は48歳だった。「年をとらないと分からないことがたくさんある」と語っていたそうである。

後に石川県専門学校(のちの四高)時代の数学教師であった師の北条時敬は、欧州滞在中の大拙と会う。北条は「実に堅忍勉学、身を立てたる人物なり」といい、「同氏は学生時代には優秀人物に非ざリシニ」と書いている。大拙は年齢を重ねるごとに大きくなっていった遅咲きの人であった。
大拙の名言は多く、なにを選ぶか迷ったが、「成長はまたつねに苦痛をともなう」を採りたい。心の苦痛は成長のあかしなのだ。この言葉は大学生に響くようで、講義の後の感想には、救われたというものが多い。鈴木大拙は著書や講演によって当時の世界に与えた影響は甚大であり、日本でも優れた研究者を通じて影響を与えたのだが、現在でもその影響は大きい。鈴木大拙は偉大な人である。