日本を西欧に紹介した医師では、ケンペル(1651ー1716)、シーボルト(1796ー1866)、そしてベルツ1849ー1937)がいる。いずれもドイツ人である。
ケンペルは1651年にオランダ東インド会社付きの医師として長崎出島の商館に着任。江戸参府に同行し、将軍綱吉の所望で自作の歌と踊りを披露している。『日本の歴史及び紀事」を著し日本の風土や人物を紹介した。
シーボルトは1823年にオランダ東インド会社の外科少佐として長崎出島に着任。鳴滝塾を開設した。6年間の滞在中の集めた地図などが露見して関係者が罪に問われた。シーボルト事件である。
明治新政府は当時最も優れていたドイツ医学の導入をはかり、ドイツのライオプツイヒ大学から27歳のベルツを招き、東京医学校内科正教授とした。ベルツは以後29年間の日本での生活を送る。ベルツは学校の夏季休暇で国内旅行をし、48里・5日の距離の1200mの高地にある上州の草津温泉を発見する。草津ではライ病、梅毒、淋病などを多く湯治していた。草津温泉は、強酸性の温泉で、非常に高温であった。ベルツは草津を世界三大温泉と讃えた。ヒビやアカギレの薬「ベルツ水」をつくったり、胃腸病に特効のある「白根水」も研究している。
ベルツは1905年の帰国に際して天皇皇后両陛下から最高勲等の「勲一等旭日大綬章」を授与された。1881年に荒井はつと実質的に結婚、1904年に正式に入籍している。
1907年には皇太子の病気診断のため親交のあった伊藤博文候からの書状を受けて再来日。皇太子嘉仁親王の欧州歴訪の中止を勧告している。
副島種臣子息、井上外務卿、大隈重信参議、板垣退助自由党総理などを往診。松田東京府知事、大山巌陸軍卿夫人の死去にも立ち会っている。
(ベルツ記念館で入手した「ベルツ博士と草津」より)
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15時から18時まで、代々木の福島さんのスタジオでの『偉人の命日366名言集』の録音に立ち会う。エデュカの竹下社長によるディレクションで、声優の最上さんと女優による「名言」の録音。「音声」の奥の深さを実感した。できあがりが楽しみだ。
終了後、ビールで乾杯。
「名言との対話」8月17日。後藤静香「本気ですればたいていな事はできる。本気ですれば何でも面白い。本気でしていると誰かが助けてくれる。人間を幸福にするために、本気で働いているものは、みんな幸福で、みんな偉い」
後藤 静香(ごとう せいこう、1884年8月17日 - 1971年5月15日)は、大分県出身の社会教育家、社会運動家である。
蓮沼門三の「修養団」に傾倒し参加。格言や偉人伝、寓話などをわかりやすく解説した雑誌をいくつも発行。代表作である詩集・格言集『権威』は100万部を越えて、当時の青年、教育社、労働者に愛読され、熱狂的な支持を得た。
「十里の旅の第一歩 百里の旅の第一歩 同じ一歩でも覚悟が違う 三笠山に登る第一歩 富士山に登る第一歩 同じ一歩でも覚悟が違う どこまで行くつもりか どこまで登るつもりか 目標がその日その日を支配する」
「たしかに生まれた、必要だからだ。 たしかに生きている、まだ用事があるからだ。
「われこれがために生まれたり」 はっきりとそう言いうるものをつかんだか。」
「なんでもいい。善と信じたことを、ただ一つでも続けてみよ。何が続いているか。三年、五年、十年続いたことが幾つあるか。一事を貫きうる力が、万事を貫く。」
「もっと落ついて考えよ あまりそわそわしすぎる 太陽をみよ 月をみよ
星をみよ 花をみよ お前のように浮き浮きしている者が どこにある せめて一時間でも、じっとしておれ ただ一つのことでも 本気に考えてみよ」
後藤静香の言葉を眺めていると、当時の青年・教育者・労働者が心酔したのがよくわかる気がする。現代でもスポーツ選手にファンが多いと聞く。後藤の問いかけには、気持ちを揺さぶるものがある。「どこまで行くつもりか」「言いうるものをつかんだか」「本気に考えてみよ」、、。「本気か?」という問いかけを自分にしよう。