「名言との対話」8月の人選と本選びーー今年の対象者は明治生まれの人物(祖父母の世代)。

7月の今週で終わりになるので、「名言との対話」8月の人選と本選び。

7年目の今年の対象者は明治生まれの人物(祖父母の世代)。

6年目の昨年は「大正から昭和初期に生まれた人物」(父母の世代)だった。

木下杢太郎。速水御舟。鍛冶隆一。田島ナビ。壷井栄。長与善郎。マタ・ハリ。長谷川周重。麻生豊。藤原あき。吉川英治一万田尚登。ヒッチ・コック。荒畑寒村。内藤豊次。しょうち三郎。後藤静香。石井光次郎。ココ・シャネル。金栗四三。大井上康。中島董一郎三好達治滝廉太郎。山田美妙。マザー・テレサ岩波茂雄。川鍋秋蔵。大内兵衛国木田独歩鏑木清方

来月は、どんな人生、どんな名言に触れることができるか。

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NPO知研」関係の「定款変更」の提出書類についての問い合わせ。法務局。都庁。国税事務署所。都税事務所。府中市役所。八王子市役所。手続きの全体像がやっとみえた。銀行関係の手続きもわかった。順次やっていこう。

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明日の「幸福塾」の講義の準備。

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1万歩。

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小山内 薫(おさない かおる、1881年明治14年)7月26日 - 1928年昭和3年)12月25日)は、明治末から大正・昭和初期に活躍した劇作家演出家批評家

広島市出身。府立一中、旧制一高を経て、東京帝大文科大学に進学。一高時代には内村鑑三、帝大時代にラフカディオ・ハーン森鴎外と関係している。

1907年、同人誌『新思潮』を創刊。1909年、自由劇場を結成(二代目市川左団次)。1912年から1923年にかけてモスクワ、ベルリン、ロンドンなど欧州に滞在。1916年、移動集団「新劇場」を結成(山田耕作)。1919年、「国民文芸会」を創立(久保田万太郎久米正雄吉井勇)。1920年、松竹のキネマ俳優学校校長。松竹キネマ研究所を設立。1924年築地小劇場を創設(土方与志)。1925年、日本初のラジオ演劇を演出。1928年、48歳で急死。

以上のような組織づくりを中心とした活発な活動をみると、無理な日程をこなす中で体調を崩したことが死因であるとわかる。まさに近代演劇の開拓のために駆け抜けた生涯だった。小山内薫は「新劇の父」と呼ばれる。

小山内薫の業績は戯曲、詩、小説、評論・随筆・紀行、翻訳など、実に多彩であるが、近代演劇では戯曲を正しく表現する「演出」を独立させたことが特記される。戯曲、演出、演技という流れを確立した人である。

華麗な人脈は相互に影響を与えあったことを思わせる。随筆の中で各界の著名人が現れる。「芝、麻布」では永井荷風森鴎外佐藤春夫。「明舟町」では岡田三郎助。「芝浦」では島崎藤村木村荘八内田魯庵。「森元町」では菊五郎。「竜士会」では島崎藤村柳田国男田山花袋蒲原有明。文学者、画家、役者、詩人、音楽家、などが交流をはかりながら、明治の文化を盛り上げていったことが感じ取れる。

葬儀は「劇場葬」であった。劇場とは築地小劇場である。「小山内薫先生劇場葬公文」を手にした。それによると、戒名は「蘭渓院献文慈薫居士」である。遺族の希望でデスマスクをつくっている。「三田文学」、「子分の会」、「劇と評論」の代表者も葬列に加わったというから、仲間が多かったことがわかる。

追悼文では、「時代の第一線」「不断の努力」、「日本演劇界の先覚者」と讃えられた。そして「永遠の若さと尽きざる精力」の人とされている。演出はイギリスの古典から第一次世界大戦後の新傾向まで45編であった。80人の同志は本城である「築地小劇場」を守る覚悟を披露している。この新劇運動は現在の文学座俳優座、民芸などに継承されている。

「芝居は魂だ!」の前には「形でもない、声でもない、光でもない、色でもない」という言葉がある。

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