『邪馬台』2017年秋号--「読書悠々」は佐藤愛子、宇野千代、高峰秀子、志村ふくみ

中津の同人誌『邪馬台』2017年秋号(通巻204号)が届く。

f:id:k-hisatune:20170922054816j:image

 ・巻頭言。評論。詩。旅行記。随筆。随想。研究。短歌。川柳。俳句。創作。

・今号は新しい企業や病院の広告が目についた。

・私の連載「読書悠々」は15回目。母は随想「リービ英雄の『英語でよむ万葉集』。妻は「短歌」。次号からは『「団塊」の自分史』シリーズ(初回は猪俣範一君)、松田君の「ビジネス川柳」が加わり豊かになる。

-----------------                     

今日は、高齢女性の著書を中心に紹介する。

 〇 佐藤愛子「九十歳。何がめでたい」:異次元の高齢社会のミクロの姿とマクロの姿。

 90万部を超えるベストセラー本。

 2017年5月の時点で日本の65歳以上の人口は3400万人、80歳以上の人口は1000万人を超えた。100歳以上は7万人である。異次元の高齢社会に突入したのである。

これからは、90歳が普通になる時代だ。この本の読者はたぶん、高齢者だろう。今後は、先日105歳で亡くなった日野原重明先生や佐藤愛子のような超高齢者がスターになる時代を迎えることになるだろう。佐藤愛子が2015年に「女性セブン」に連載したエッセイの集合体がこの本である。当時は92歳。大正12年生まれだから今年中に94歳になるはずだ。

さて、佐藤愛子は昔は「身の上相談」と言っていた新聞の「人生相談」の愛読者である。時代とそこで生きる人の人生が垣間見えて、回答者の価値観、人生の軌跡がうかがわれて興味深いからという。この本の話題は、高齢者となった自身の経験と新聞の「人生相談」から見える世相への怒りが中心だ。長生きして、居直った、歯に衣着せぬ舌鋒が読者の共感を呼んでいる。

「ああ、長生きすることは、全く面倒くさいことだ。耳だけじゃない。眼も悪い。始終、涙が滲み出て目尻目頭のジクジクが止まらない。膝からは時々力が脱けてよろめく。脳みそも減ってきた。そのうち歯も抜けるだろう。なのに私はまだ生きている」

「本を読めば涙が出てメガネが曇る。テレビをつければよく聞こえない。庭を眺めると雑草が伸びてていて、草取りをしなければと思っても、それをすると腰が痛くなってマッサージの名手に来てもらわなければならなくなるので、ただ眺めては仕方なくムッとしているのです。そうしてだんだん、気が滅入ってきて、ご飯を食べるのも面倒くさくなり、たまに娘や孫が顔を出してもしゃべる気がなくなり、ウツウツとして「老人性ウツ病」というのはこれだな、と思いながら、ムッと坐っているのでした」

このような状況の中で、「女性セブン」での隔週連載が始まってみると、錆びていた脳細胞が働き始め、老人性ウツ病から抜け出たのである。人間は「のんびりしよう」と考えてはダメだというのが佐藤愛子の悟りである。

以下、佐藤愛子語録。

・愛と恋は違う。愛は積み重ねて昇華して行くものだけれど、恋は燃え上がってやがては灰になってしまうものだ。

・もう「進歩」はこの辺で」いい。更に文明を進歩させる必要はない。進歩が必要としたら、それが人間の精神力である。

・「一生意思を曲げない覚悟」ではなく、長い年月の間にやがて来るかもしれない失意の事態に対する「覚悟」である。

ミクロで見るとこの本が述べているのが異次元の高齢化の中身だが、マクロで見ると違った姿が見える。現在医療は40兆円、予防10兆円、介護10兆円で、計60兆円規模だ。将来は、医療60兆円、予防20兆円、介護20兆円、計100兆円になるという予測だ。マクロでもミクロでも大変な時代になる。

  〇 宇野千代「生きていく私」--4回の結婚、13回の自宅建築、、、。人生を肯定した楽天的生き方。

 宇野千代「生きていく私」(角川文庫)を読了。

自由奔放に99年の人生を生きた宇野千代の自伝。85才の時の執筆だ。

4回の結婚、13回の自宅建築、、、。人生を肯定した楽天的生き方に感銘を受ける。

 以下、人生観と仕事観。

  • (失恋)いつのときでも、抗うことなく、自分の方から身を引いた。
  • 泥棒と人殺しのほかは何でもした。
  • 小説は誰にでも書ける。それは、毎日毎日坐ることである。
  • 私はいつでも、自分にとって愉しくないことがあると、大急ぎで、そのことを忘れるようにした。思い出さないようにした。そして全く忘れるようになった。これが私の人生観、、、
  • 私の書くものは、ほんの僅かしかない。とことんまで手を入れるのが癖であるから、それほど、可厭になるものは書いていない。
  • 私は、どんなときでも、どんなことでも、それが辛い、苦しいこととは思わず、愉しい、面白い、と思うことの出来る習慣があった。
  • 私は、辛いと思うことがあると、その辛いと思うことの中に、体ごと飛び込んで行く。
  • 何ごとかに感動すると、すぐに行動しないではおられないのが、私の性癖であった。
  • 何事かをし始めると、狂気のようになるのが、私の性癖であった。
  • 何でも面白がるのが、私の癖であった。
  • 私は12、3年前から、足を丈夫にするために、毎日、1万歩歩くことを始めた。
  • 一かけらの幸福を自分の体のぐるりに張りめぐらして、私は生きていく。幸福のかけらは、幾つでもある。ただ、それを見つけ出すことが上手な人と、下手な人とがある。幸福とは、人が生きて行く力のもとになることだ、と私は思っている。
  • 幸福は伝染して、次の幸福を生む。
  • 人間同士のつき合いは、この心の伝染、心の反射が全部である。、、、幸福は幸福を呼ぶ。
  • 小説を書くこと、きもののデザインをすること、、、どちらの仕事の内容も、それまでには全くなかったものを、新しく発見し、切り開いて行くと言うことでは、少しの違いもない。
  • 若さの秘訣というものがあるのかどうか、、好奇心が旺盛である。、、、素早い行動、、、。男たちへの憧憬、、、
  • 「人の世はあざなえる縄の如し」と昔の人も言ったが、誰の手が、その縄をあざなうのか、知ることも出来ないのである。
  • 私には年齢と言う意識がなかった。
  • 自分の幸福も、人の幸福も同じように念願することの出来る境地にまで、歩いて行くのである。その境地のあるところまで、探し当てて歩いて行く道筋こそ、真の人間の生きて行く道標ではないか、、。

交流があり66才で逝った平林たい子は、「私は生きる」と言ったのだが、99才という長寿の宇野千代は「生きていく私」と言う。宇野千代の66才の時から84才までは、214ページから373ページまでだ。人生のページというものがあるとしたら、213ページの平林たい子と、373ページに加え、さらに15年分は132ページであり、宇野千代の人生は505ページという盛大なものになるという計算になる。実に平林たい子の2.4倍の人生を生きたことになるのだ。まさに「生きていく私」というタイトルそのままである。

「角川文庫版に寄せて」(平成8年新春)には、この正月で数えの百才になったとあり、あと4年ほど生きれば、、、明治、大正、昭和、平成と生きてきて、その上さらに21世紀が見たいとは我ながらなんとも呆れたものではないか」と書いている。宇野千代はこの年1996年(平成8年)に天寿を全うしている。最後まで元気だったということになる。

 〇高峰秀子 「おいしい人間」--大女優は名エッセストだった

 高峰秀子「おいしい人間」(潮出版社)を読了。

神保町の古本屋街をブラブラして、本を買い込む。

その時の問題意識という目があるからだろうか、向こうから本のタイトルが飛び込んできた。一つは「漱石の俳句」、もう一つは女優・高峰秀子のエッセイだ。

昨日の「名言との対話」で高峰秀子を書いたのだが、そこで彼女のエッセイが素晴らしいことを発見した。その目が「おいしい人間」を見つけた。本屋を巡る愉しみはここにある。

エッセイでは筆者の人柄、日常の生活、周囲の人物評などが出てくるので、楽しい。この人は女優であり、夫は映画監督であったので、著名な俳優などが出てくる。

丹下左膳を演じた大河内伝次郎については、次のように書かれている。

「優れた俳優は、物の教えかたも要領を得て上手い」「「が、大河内さんだけは本身を使う」「不器用な人で、おまけにド近眼」「「きびしく名刀のような人だった」、、。

司馬遼太郎「先生は美男である(いささか蒙古風)」。安野光雅「先生も美男である(いささかインディアン風)」。こういう対比や、人間性があらわれるエピソードを書く筆致は実に楽しい。

自分についてはどうか。

「年中無休、自由業」「白黒をハッキリさせたい性質(たち)の私」「女優の仕事は、そと目には華やかでも、私にいわせれば単なる肉体労働者である」「30歳のオバサン女房が夫をつなぎ止めておきには「美味しいエサ」しかない」「なんいごとにつけても、自分自身の眼や舌でシカと見定めない限りは納得ができない、という因果な生まれつきの私」「「食いしんぼう」「春先には蕗のとうの風味を味わい、夏には枝豆の爽やかな緑を楽しみ、秋には茸、冬には鍋ものと、ささやかでも季節そのものをじっくりと楽しめる、、」「私のヒイキは、なんといっても「内田百閒」だった」「私は、自分が下品なせいか、上品なものに弱い」「人づきあいはしない。物事に興味を持たず欲もない。性格きわめてぶっきらぼう」「独断と偏見の固まりのような人間」「どんな知人友人でも死顔だけは見ないことにしている」

400本の映画に出演した大女優は、名エッセイストだったことを納得した。沢村貞子もそうだったが、「目」がいい。

 

〇志村ふくみ「一色一生」(講談社学芸文庫)を読了。

染織家の名匠・志村ふくみは、すぐれた文章家でもある。

それを示したのが、大佛次郎賞を受賞したこの「一色一生」である。

「色と糸と織と」「一色一生」「糸の音色を求めて」「かめのぞき」「天青の実」と題する1章。「織 探訪記」「住まいと影」「今日の造形 織と私」「プレ・インカの染織を見て」「呉須と藍」「ルノアールの言葉」「老陶芸家の話」「蚕」「景色」と題する文章の並ぶ2章。

例えば「色と音」は、「今日は夕刻まで色とたわむれていた。」「話し合うような、たわむれるような、時には鍵盤をたたいて、余韻をたもしむような気持ちがするのである」「その色の一つ一つが純一に自分の色を奏でていることだ。色にも音階(色諧というべきかもしれないが)があって、、、」「四十八茶百鼠」「その卓抜した感覚こそ日本人そのものである」「染めは色の純度を守るためにあるようなものだ」、、というような珠玉の言葉で連なっている。和歌的な感覚と洞察に満ちた哲学が込められている。

読者はこの名匠の染織の着物を味わうように、深い言葉の世界に引き込まれていく。

さて、しかし、この本では3章が心に残った。

それは、志村ふくみがいかに成立したかがわかる壮烈な自伝である。

養父母に育てられた志村は、出生への疑惑にさいなまれながら、18歳で実母のから打ち明けられ、その実母から機織り世界に導かれる。

昭和31年から32年にかけての「日記」が載っている。東京に夫と子供をの残して近江の実家に帰った。織物の修業にはげみ、幼子と暮らせる日を願った。32歳だった。

「死物狂いでこの道を行こう。」「流れに逆らって一人漕いで行かねばならない。まがうことのない破壊を一方で行いながら、孤立の陣をはってゆく。仕事がすべてだ。生きて、夫や子供と別れることが出来たのだから、これ以上辛いことはよもやあるまい。」

「ふっくらとした色の盛り上がり、きりきりっと全体の引き締まる色合、雪や、大地や、石の上の苔や、そのものの肌ざわりまで感じさせる色、落葉の色、葡萄の色、露草の滴の色、物思わしげな色、艶やかな色、がっしりした色、無垢な色、小粋な色、ひと恋しい色、消え入りそうな色、日影の色、思い出の中に生きる色、夢の中でみた色、燃えている色、沈んでいる色、濡れた色、透けた色、何という色自体の多様さだろう。、、、一つ一つをかけがいのない、納得のゆく色でこれからの人生を描いてゆこうと願う。」

木工家・黒田辰秋のアドバイスも圧巻だ。

「自分のように我がままで、怠け者で不器用な人間は、こつこつ仕事をしてゆくしかない。、、、ただあなたがこの道しかないと思うならおやりなさい。まず自分の着たいと思うものを織りなさい。先のことは考えなくていい。ただ精魂こめて仕事をすることです。「運、鈍、根」とはそういうことです。何年も何年も黙々とひとりで仕事をつづけてゆけるか、中みがよっぽど豊かで、ぬきさしならぬことえでなければ続かないものです。」

汽車を下りたら猛烈な吹雪で一寸先もみえなかった。志村はその中を走りながら「仕事をしよう。仕事をしよう」と叫んでいた。

染織の世界で前人未踏の境地を開き、かつ内面世界を詩情豊かに綴っている志村ふくみの仕事は、多くの女性達に勇気を与え、日本の深さに思いを至らせる。志村ふくみの長い仕事に、文化勲章をはじめとする数々の名誉のある賞が与えられていることに深く納得する。

 

「副学長日誌・志塾の風」

・授業準備

・高野課長:インターゼミ

 

17時:地研にて企画会議。談論風発

f:id:k-hisatune:20170922053640j:image

 

 「名言との対話」9月21日。樫山純三「実行力に増して先見性やアイデアが重要なのだ」

樫山 純三(かしやま じゅんぞう、1901年9月21日 - 1986年6月1日)は日本の実業家競走馬馬主

尋常小学校卒業後、三越呉服店に丁稚として入店。その後、大阪貿易学校に学び。26歳、樫山商店を設立。46歳、オンワード樫山の母体になる樫山株式会社とする。59歳、オンワード牧場を創設。76歳、樫山奨学財団設立。84歳で没。

2015年ではオンワード樫山(2635億円)は日本のアパレルメーカー注、ユニクロファーストリテイリング(1兆6817億円)、しまむら(5470億円)、ワールドHD(2635億円)に次ぐ4位で、後には青山商事(2217億円)が続く。

「人間とは便利なものである。いま振り返ると、いい思い出しか浮かんでこない。ちょうど負けた馬券を覚えていないようなものである。三越の店員時代のこと、独学のこと、梶山商店創業当時のこと、しんどかったことや苦しかったことは、年月による浄化作用を受けて、すべてが懐かしいものに変わっている。」

持ち前の馬力、実行力に加えて、時代の流れを読む先見性、独創的なアイデアこそが、樫山の真骨頂だった。その樫山は創業と経営が軌道に乗ると、牧場をつくり競馬馬を育てる事業に熱中する。馬主としてだけでなく、ブリーダーとしても数々の名馬を送り出した。日本人で初めてフランスダービーで勝利している。

また晩年には奨学財団をつくり内外の若い人材の育成に力を入れている。この奨学財団の30周年記念事業として、国際的視野に立った社会科学(政治、経済、社会など)の分野の現代アジア研究における独創的で優れた業績を顕彰する樫山純三賞が2006年に設けられた。バングラデシュ、台湾、中国、モンゴル、中東、韓国、インドに関する研究が受賞している。アジア研究に与える賞の創設は先見性の現れだろう。

樫山純三の時代を読む先見性と独創的なアイデア、そしてそれを推進する実行力は、本業で遺憾なく発揮されたが、さらに人生の後半には国際的なホースマン(馬主)、国際的人材の育成という面にも大いに発揮された。先見性とアイデアと実行力が見事な人生を描いたのだ。