宇野千代「生きていく私」--4回の結婚、13回の自宅建築、、、。人生を肯定した楽天的生き方。

宇野千代「生きていく私」(角川文庫)を読了。

 自由奔放に99年の人生を生きた宇野千代の自伝。85才の時の執筆だ。

4回の結婚、13回の自宅建築、、、。人生を肯定した楽天的生き方に感銘を受ける。

生きて行く私 (角川文庫)

 

 

 

宇野千代「私には年齢という意識がなかった」

宇野 千代(うの ちよ、1897年明治30年)11月28日 - 1996年平成8年)6月10日)は、大正昭和・平成にかけて活躍した日本小説家随筆家

宇野千代「生きていく私」(角川文庫)を読了。自由奔放に99年の人生を生きた宇野千代の自伝。85才の時の執筆だ。4回の結婚、13回の自宅建築、、、。人生を肯定した楽天的生き方に感銘を受ける。

以下、人生観と仕事観。

・(失恋)いつのときでも、抗うことなく、自分の方から身を引いた。

・泥棒と人殺しのほかは何でもした。

・小説は誰にでも書ける。それは、毎日毎日坐ることである。

・私はいつでも、自分にとって愉しくないことがあると、大急ぎで、そのことを忘れるようにした。思い出さないようにした。そして全く忘れるようになった。これが私の人生観、、、

・私の書くものは、ほんの僅かしかない。とことんまで手を入れるのが癖であるから、それほど、可厭になるものは書いていない。

・私は、どんなときでも、どんなことでも、それが辛い、苦しいこととは思わず、愉しい、面白い、と思うことの出来る習慣があった。

・私は、辛いと思うことがあると、その辛いと思うことの中に、体ごと飛び込んで行く。

・何ごとかに感動すると、すぐに行動しないではおられないのが、私の性癖であった。

・何事かをし始めると、狂気のようになるのが、私の性癖であった。

・何でも面白がるのが、私の癖であった。

・私は12、3年前から、足を丈夫にするために、毎日、1万歩歩くことを始めた。

・一かけらの幸福を自分の体のぐるりに張りめぐらして、私は生きていく。幸福のかけらは、幾つでもある。ただ、それを見つけ出すことが上手な人と、下手な人とがある。幸福とは、人が生きて行く力のもとになることだ、と私は思っている。

・幸福は伝染して、次の幸福を生む。

・人間同士のつき合いは、この心の伝染、心の反射が全部である。、、、幸福は幸福を呼ぶ。

・小説を書くこと、きもののデザインをすること、、、どちらの仕事の内容も、それまでには全くなかったものを、新しく発見し、切り開いて行くと言うことでは、少しの違いもない。

・若さの秘訣というものがあるのかどうか、、好奇心が旺盛である。、、、素早い行動、、、。男たちへの憧憬、、、

・「人の世はあざなえる縄の如し」と昔の人も言ったが、誰の手が、その縄をあざなうのか、知ることも出来ないのである。

・自分の幸福も、人の幸福も同じように念願することの出来る境地にまで、歩いて行くのである。その境地のあるところまで、探し当てて歩いて行く道筋こそ、真の人間の生きて行く道標ではないか、、。

交流があり66才で逝った平林たい子は、「私は生きる」と言ったのだが、99才という長寿の宇野千代は「生きていく私」と言う。宇野千代の66才の時から84才までは、214ページから373ページまでだ。人生のページというものがあるとしたら、213ページの平林たい子と、373ページに加え、さらに15年分は132ページであり、宇野千代の人生は505ページという盛大なものになるという計算になる。実に平林たい子の2.4倍の人生を生きたことになるのだ。まさに「生きていく私」というタイトルそのままである。

「角川文庫版に寄せて」(平成8年新春)には、この正月で数えの百才になったとあり、あと4年ほど生きれば、、、明治、大正、昭和、平成と生きてきて、その上さらに21世紀が見たいとは我ながらなんとも呆れたものではないか」と書いている。宇野千代はこの年1996年(平成8年)に天寿を全うしている。最後まで元気だったということになる。

------------

夜は知研究の八木会長と根岸さんと、南大沢で飲み会。

f:id:k-hisatune:20170713045558j:image

 

「名言との対話」7月12日。西竹一「「We won.」

 西 竹一(にし たけいち、1902年7月12日 - 1945年3月22日)は、日本陸軍軍人華族男爵)。最終階級陸軍大佐。愛称・通称はバロン西バロン・ニシ、Baron Nishi)。1932年 ロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越競技金メダリスト

府立一中では小林秀雄迫水久常、陸軍幼年学校では辻政信と同期であった。華族だったこともあり、西は乗馬を好み、騎兵を選ぶ。そして陸軍士官学校を卒業する。

 欧米出張中に西はイタリアで名馬・ウラヌス号と出会い、自費で購入する。1932年のロサンゼルスオリンピックでは馬術障害飛越競技で優勝し、金メダルを獲得する。このとき、ウラヌスは自分から後足を横にねじって障害をクリヤした。この優勝インタビューで西が答えた言葉である。Weとは自分とウラヌスを意味していた。この言葉は人々に感銘を与え、西はバロン西(男爵)と呼ばれ、欧米の社交界アメリカで排斥にあっていた日系人の人気を集めた。西はロスアンゼルスの名誉市民にもなっている。

後に馬事公苑で余生を送っていたウラヌスに会いにいく。このときウラヌスは西の足音を聞いて狂喜し、首をすり寄せて、愛咬をしてきた。生前の西は「自分を理解してくれる人は少なかったが、ウラヌスだけは自分を分かってくれた」とも語っていた。

栗林中将率いる硫黄島での戦いで攻撃したアメリカ軍は「馬術バロン西、出てきなさい。世界は君を失うにはあまりにも惜しい」と連日呼びかけたが、西は黙ってこれに応じなかったという証言がある。クリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」にも西は登場しているが、残念ながらそれには私は気がつかなかった。

私(I)が勝ったのではではなく、私とウラヌスの我々(We)が勝ったと西は優勝インタビューで答えた。最高の舞台に立ったときの西竹一の言葉が、西伝説を生んだのだ。